アスプロモンテと9月協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
「イタリア統一運動」の記事における「アスプロモンテと9月協定」の解説
イタリアの統一はマッツィーニら民主派が望んだ人民革命によるものではなく、サルデーニャ王国によるイタリア諸国の吸収合併という形で完成しつつあった。そして、「アルプスからアドリア海までの自由」を掲げた統一運動は残されたローマとヴェネトに焦点が合わされた。だが、問題があった。教皇の俗界主権に対する挑戦は世界中のカトリック信者から大きな不信の目で見られ、加えてフランス軍がローマに駐留していた。ローマの扱いについては新生イタリア政府内でも意見が別れ、保守派はローマ併合に反対しており、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世もヴェネト地方回収を優先させる考えだったが、生前のカヴールは速やかな併合を主張し、教皇庁やフランスと交渉しており、彼の後継者のベッティーノ・リカーソリ(英語版)首相、その次のウルバーノ・ラッタッツィ(英語版)首相もローマ併合を急ぐ考えだった。 ローマに対する政府の方針は一枚岩ではなかったが、今や国民的英雄となっていたガリバルディは自分が行動を起こせば、政府は支持すると信じていた。1862年6月に彼はジェノヴァを出航し、再びパレルモに上陸して「ローマか死か」(Roma o Morte) をスローガンに義勇兵を集めた。国王の命令に忠実なメッシーナの守備隊は彼らの本土への渡航を禁止した。2,000人を数える彼の義勇兵集団は南に向かいカターニアから出航した。ガリバルディは勝者としてローマの門をくぐるか、さもなくば城壁の下で死ぬと宣言した。彼は8月14日にメーリトに上陸し、カラブリアの山脈を行軍した。 イタリア政府はこの努力を支持するどころか、強く反対した。チャルディーニ将軍は、義勇兵集団に対してパラビチーノ大佐指揮下の正規軍師団を差し向けた。8月28日に両軍はアスプロモンテで対峙した。義勇兵が偶発的に発砲をし、次いで銃撃戦となったが、ガリバルディはイタリア王国の仲間に対して応戦することを禁じた。義勇兵の中から数人の犠牲者が出て、ガリバルディ自身も負傷し、多くが捕虜となった。ガリバルディは蒸気船ヴァリニャーノ号で護送され、丁重な扱いながら囚人となるが、彼を擁護する世論が高まり、結局、釈放された。 一方、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は教皇国家の安全な獲得手段を模索していた。彼はフランス軍のローマからの撤退を条約を通して実現しようとし、1864年9月にナポレオン3世と会見して9月協定(英語版)を締結した。協定により、フランス皇帝はイタリアがローマを攻撃しないことを条件に2年以内のフランス軍のローマからの撤退に同意した。この協定にはローマ攻撃をしない意思表示としての遷都の秘密条項が含まれており、これが公にされたことで激しい抗議行動が引き起こされている。1865年に政府所在地は、旧サルデーニャ首都のトリノからフィレンツェへ移され、この地で最初の国会が召集された。 1866年12月、教皇の引き止めにも関わらず、最後のフランス兵がローマを出立した。フランス軍の撤退により(ヴェネツィアとサヴォイを除く)イタリアから外国軍兵士の姿が消えた。
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