アジア系フェミニズム
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「ミツエ・ヤマダ」の記事における「アジア系フェミニズム」の解説
ヤマダが最初の詩集『収容所ノート』を発表するきっかけとなったのは、アルタ(英語版)との出会いであった。アルタは1969年にオークランドで米国初のフェミニスト出版社「シェイムレス・ハシー・プレス(恥知らずのあばずれ女出版社)」を設立した詩人である。ヤマダはそれまでに「靴箱いっぱいの詩」を書いていたが、収容所体験を描いたものであり、発表するつもりはなかった。これを読んだアルタに高く評価され、1976年に『収容所ノート』として刊行された(1998年にラトガース大学出版局から第2版が刊行された)。同出版社は1989年に解散するまでにヤマダのほか、パット・パーカー(英語版)、ヌトザケ・シャンゲ(英語版)、スーザン・グリフィン(英語版)の4人のフェミニスト詩人・劇作家を世に送り出した(すべて処女作を刊行した)ことで知られる。 アジア系女性作家が団結して活動する必要があると考えたヤマダは、1980年に同じオレンジ郡に住む中国系アメリカ人作家らとともに「オレンジ郡多文化女性作家」団体を結成した。1981年には中国系アメリカ人作家のネリー・ウォン(英語版)とヤマダの活動を紹介するドキュメンタリー映画『ミツエとネリー ― アジア系アメリカ人詩人』が制作された。これはアリー・ライト(英語版)と夫のアーヴィング・サラフが12万ドルの全米人文科学助成金を受けて共同で制作した映画で、アメリカ映画ビデオ・フェスティバル、香港映画フェスティバル、台湾映画フェスティバルで上映され、PBS(公共放送サービス)でも放映された。このほか、ネリー・ウォンとともに1966年に社会主義労働者党から分離して結成された革命的フェミニズム政党の自由社会党(英語版)の党員であった中国系アメリカ人女性詩人のマール・ウー(英語版)、日系二世の歌手・振付師ノブコ・ジョアン・ミヤモトらと活動を共にした。 ヤマダが作品を発表したアジア系アメリカ人女性作家のアンソロジーとして、『私たちが織る織物』、『センネンボクの種まき』、『アジア系アメリカ人作家3人が語るフェミニズム』などがある。『センネンボクの種まき』はキッチンテーブル (有色人女性出版社)(英語版) から刊行されたが、この出版社は、1980年に、当時エマーソン大学で黒人女性文学を担当していたバーバラ・スミス(英語版)がオードリー・ロードの提案を受けて設立したものであり、1988年にヤマダの第2作『砂漠行』を刊行したのもキッチンテーブルである。本書に収められた詩「棍棒」は、妻を大きなこけしで殴る夫の暴力(ドメスティック・バイオレンス)を描いた作品として当時は非常に衝撃的であり、こうした点でヤマダの作品は、キンバリー・クレンショー(英語版)が1989年に提唱した、人種・民族、宗教、国籍、階級、性的指向、性自認などが多層的に交差するインターセクショナリティの概念を先取りするものとされる。 さらに、こうした運動の一環として、本務校サイプレス・カレッジで女性学プログラムのコーディネーターを務めるほか、1981年から82年までカリフォルニア州立大学ロングビーチ校の女性学講師、83年にシカゴ大学多文化女性研究所の研究員、87年にピッツァー・カレッジ(英語版)(カリフォルニア州クレアモント)の客員詩人を務め、合衆国多民族文学研究会(英語版) (MELUS) などの学術誌、文芸誌に寄稿している。 一方、アムネスティ・インターナショナル (AI) の活動にはすでに1960年代から関わっていたが、1987年から91年までAIアメリカ合衆国理事会員を務め、1991年にはジュネーヴ(スイス)で開催された女性と人権に関するAI国際会議、横浜で開催されたAI国際評議員会議に参加した。 ヤマダは教員・作家として学生や若手作家に対して、「最悪なのは受動性。隠れたままであってはならない。立ち上がって、自分の存在を示してほしい」、「重要なのは書き続けること」、「ほんとうに自分の気持に正直に書くこと」と励まし続けている。 2019年8月24日に第3作『フルサークル』がカリフォルニア大学から刊行され、これに合わせて全米日系人博物館で朗読会が行われる。
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