アジア系アメリカ文学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 16:37 UTC 版)
「ミツエ・ヤマダ」の記事における「アジア系アメリカ文学」の解説
収容所から解放されて新しい生活を始めた日系人は、抑留体験について語ろうとしなかった。長女のジェニが母の抑留について知ったのは、テレビ番組を通じてである。ヤマダは、「(抑留体験は)決して口にしてはならないこと、恥ずべきこと」であったと、日本の「恥の文化」を指摘する。実際、ルース・ベネディクトが戦時中の調査研究や日系移民との交流を通じて『菊と刀』を著したのは終戦直後の1946年のことである。したがって、ヤマダの研究活動も当初は文学に特化したものであり、政治的なものではなかった。ヤマダが政治的な意識を持つようになったのは、黒人公民権運動が起こった1950年代から60年代にかけてである。オードリー・ロード(英語版)の「私の沈黙は私を守ってはくれなかった。あなたの沈黙はあなたを守ってはくれないだろう」という言葉に共鳴し、芸術と政治は切り離せない、日系および他のアジア系アメリカ人の声を届けなければならないと感じた。 1970年代初頭は公民権運動のうねりが他のマイノリティにも波及し、アジア系アメリカ人運動が起こった。1974年にはアジア系アメリカ文学のマニフェストとされる『アイイー! ― アジア系アメリカ作家作品選集(英語版)』が全米屈指の名門黒人大学であるハワード大学の出版局から刊行された。70年代後半には日系人の強制収容に対する補償(リドレス)を求める運動が起こり、ヤマダも積極的に参加した。
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