アイドルワイルド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/17 14:22 UTC 版)
アイドルワイルド Idlewild |
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アイドルワイルド(2008年)
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基本情報 | |
出身地 | ![]() |
ジャンル | オルタナティヴ・ロック、インディー・ロック、ポスト・ブリットポップ、ポスト・グランジ |
活動期間 | 1995年 - 2010年、2013年 - |
レーベル | クッキング・ヴァイナル、サンクチュアリ、パイ、フード/パーロフォン (EMI)、キャピトル |
公式サイト | idlewild |
メンバー | ロディ・ウォンブル ロッド・ジョーンズ コリン・ニュートン ルチアーノ・ロッシ アンドリュー・ミッチェル アラン・スチュワート |
旧メンバー | ボブ・フェアファウル ギャヴィン・フォックス フィル・スキャンロン ガレス・ラッセル |
アイドルワイルド(Idlewild)は、スコットランド・エディンバラ出身のロックバンド。
概要
1995年結成。これまでにイギリスで30万枚以上のアルバムを売り上げるなど中堅バンドとしての足場を固め、浮き沈みの激しいUKシーンをサバイブしてきた。
1998年冬の初来日公演以降、長らく日本でのライブは行われなかったが、2007年の第3回ブリティッシュ・アンセムズにおいてヘッドライナーとして出演し、久々に日本のファンにその健在ぶりをアピールしている。
来歴
1997年のデビュー当時、イギリスではブリットポップはすでに終焉を迎え、トラヴィスを中心としたバラード・バンドが席巻していた。そんな中、アイドルワイルドはむしろパール・ジャムやニルヴァーナの影響を強く受けたノイジーなパンク・サウンドを特徴としていた。
2000年発表のセカンド・アルバム『100ブロークン・ウィンドウズ』からは、それまでのパンク路線から離れて独自の音楽性を追求。その成果が結実した2002年発表のサード・アルバム『リモート・パート』では全英3位、10万枚以上を売り上げるセールスを記録。しかし2005年発表のアルバム『ウォーニングズ / プロミシズ』を最後に所属していたEMIを離れ、インディーでの活動に転じる。
フロントマンのロディ・ウォンブルは、近年バンド活動とは別にスコティッシュ・フォーク路線のソロ活動を行っており、2006年にファースト・アルバム『My Secret Is My Silence』、2008年にクリス・ドレヴァーとジョン・マッカスカーとのコラボレート作品『Before the Ruin』、2011年にはセカンド・ソロ・アルバム『The Impossible Song & Other Songs』など、アルバムを定期的に発表しながらソロ・アーティストとしても評価を固めている。
またアイドルワイルドとしては、2007年にサンクチュアリからアルバム『メイク・アナザー・ワールド』、2009年にはアルバム『ポスト・エレクトリック・ブルース』を自主発表している(後にクッキング・ヴァイナルから一般発売された)。
2010年にバンドは一旦活動を休止するが、2013年9月に、ウォンブル、ジョーンズ、ニュートンの3人がタグ付けされたスタジオの写真がFacebookに投稿される。11月には、インタビューで新作の制作に取り掛かっていることを明かした。
2015年に、新メンバーを迎えての約6年振りとなる新作アルバム『エブリシング・エヴァー・リトゥン』をリリースした。
2017年に、サード・アルバム『リモート・パート』のリリース15周年を記念するライブを行った。グラスゴーO2 ABCにて2日間の予定だったが、チケットが即完売となったため、急遽ロンドンでの追加公演が決まった。2日目には、元メンバーのアラン・スチュワートとボブ・フェアファウルがサプライズ出演した。
2019年に、アルバム『Interview Music』をリリースした。同年のツアーから、スチュワートがツアー・メンバーとしてバンドに復帰した。
2020年3月には、イギリスとアイルランドにおける、結成25周年を記念したツアーが発表されたが、新型コロナウイルスによる影響で、2021年11月に延期となった。また同年12月に、ウォンブルが執筆した回顧録『In the Beginning There Were Answers: 25 Years of Idlewild』が発表され、2021年2月に出版された。
メンバー
- ロディ・ウォンブル (Roddy Woomble) - ボーカル (1995年-2010年、2013年- )
- ロッド・ジョーンズ (Rod Jones) - ギター、コーラス (1995年-2010年、2013年- )、キーボード (1995年-2010年)
- コリン・ニュートン (Colin Newton) ドラム (1995年-2010年、2013年- )
- アンドリュー・ミッチェル (Andrew Mitchell) - ベース、コーラス (2014年- )、ギター (2014年-2019年、2022年)
- ルチアーノ・ロッシ (Luciano "Lucci" Rossi) - キーボード、コーラス (2014年- )
ツアー・メンバー
- アラン・スチュワート (Allan Stewart) - ギター (2001年-2002年、2019年- ) ※2003年-2010年まで正式メンバーとして在籍
- ハンナ・フィッシャー (Hannah Fisher) - フィドル (2013年- )
旧メンバー
- フィル・スキャンロン (Phil Scanlon) - ベース (1995年-1997年)
- ボブ・フェアファウル (Bob Fairfoull) - ベース (1997年-2002年)
- ギャヴィン・フォックス (Gavin Fox) - ベース (2003年-2005年) ※2022年にツアーメンバーとして参加
- ガレス・ラッセル (Gareth Russell) - ベース (2006年-2010年)
旧ツアー・メンバー
- ジェレミー・ミルズ (Jeremy Mills) - ギター (1999年-2001年)
- アレックス・グラント (Alex Grant) - ベース (2002年)
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
- 『キャプテン』 - Captain (1998年、Deceptive) ※インディーチャート2位
- 『ホープ・イズ・インポータント』 - Hope Is Important (1998年、Food) ※全英53位
- 『100ブロークン・ウィンドウズ』 - 100 Broken Windows (2000年、Food) ※全英15位
- 『リモート・パート』 - The Remote Part (2002年、Parlophone) ※全英3位、ゴールド・ディスク獲得
- 『ウォーニングズ / プロミシズ』 - Warnings/Promises (2005年、Parlophone) ※全英9位、シルバー・ディスク獲得
- 『メイク・アナザー・ワールド』 - Make Another World (2007年、Sequel) ※全英24位
- 『ポスト・エレクトリック・ブルース』 - Post Electric Blues (2009年、Cooking Vinyl) ※全英90位、インディーチャート12位。チャート記録は公式サイトを通じて自主発売された後に、クッキング・ヴァイナルから一般発売された際のもの。
- 『エヴリシング・エヴァー・リトゥン』 - Everything Ever Written (2015年、Empty Words) ※全英20位
- Interview Music (2019年、Empty Words)[1] ※全英22位
コンピレーション・アルバム
- Scottish Fiction - Best of 1997-2007 (2007年、Parlophone/EMI) ※全英79位、日本未発売
- A Distant History - Rarities 1997-2007 (2007年、Parlophone/EMI) ※B面曲集、ダウンロード限定発売
- The Collection (2010年、EMI)
脚注
- ^ “Interview Music The New Album – Out 5 April”. Idlewild (2019年2月8日). 2019年2月8日閲覧。
外部リンク
アイドルワイルド
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「ナサニエル・パーカー・ウィリス」の記事における「アイドルワイルド」の解説
1846年、ウィリスはニューヨーク州ハドソン川に近いカンタベリー・クリークの岸近くに移転し、その新しい家をアイドルワイルドと名付けた。ウィリスが初めてこの敷地を訪れたとき、その所有者が、ほとんど資産価値が無く、「何も生み出せなかったもうからない原野だ(アイドル・ワイルド)」と言った。ウィリスは14室の自分で「コテージ」と呼んだ家屋を建設した。そこはムードナ・クリークに接し、谷には200フィート (60 m) も落ち込む高台の縁にあった。ウィリスは建築家のカルバート・ヴォーと密に相談して、川や山地の劇的な景観を十分に取り込めるように、それぞれの切妻やベランダを丁寧に計画した。 ウィリスは健康を害したので、その後の人生はアイドルワイルドで隠遁者の生活を送った。妻のコーネリアも最初の子供を産んだ後の難しい病気のために、ここでその療養に務めていた。子供は1848年4月28日に生まれた息子のグリネルだった。この夫妻には他にも、リリアン(1850年4月27日生)、エディス(1853年9月28日生)、ベイリー(1857年5月31日生)の3人が生まれて居り、また1860年10月31日には出産後数分間しか生きていなかった娘がいた。ハリエット・ジェイコブスはその家族のために働くよう、ウィリスに再雇用された。 アイドルワイルドでの晩年、ウィリスは「ホーム・ジャーナル」へ毎週寄稿を続けた。1850年、その前年に不可解な死を遂げていたポーの作品集を準備していたルーファス・ウィルモット・グリスウォルドを助けた。グリスウォルドはポーの最初の伝記も書いており、それで意図的にポーの評判を落とそうとしていた。ウィリスはポーの最も強力な弁護者の一人であり、ある時には「告訴(それは他の名称にはあたらない)は真実ではない。非情な虚偽表示に満ちている。不自然な暗闇に影を深まらせ、それらを解放するはずの日の光を遮っている。」と記していた。 1850年、ウィリスは俳優のエドウィン・フォレストとその妻キャサリン・ノートン・シンクレアとの離婚訴訟に巻き込まれた。1849年1月、フォレストは仲間の俳優ジョージ・W・ジェイミーソンから妻に宛てたラブレターを発見した。その結果、フォレストとキャサリンは1849年4月に別居した。フィラデルフィア市に移転して1850年2月に離婚訴訟を起こしたが、ペンシルベニア州議会がその申請を拒否した。キャサリンはジャーナリストのパーク・ゴッドウィンの家族のところで生活するようになり、別居が公のものとなり、ニューヨーク州中の新聞が不貞と考えることなどゴシップを掲載した。 ウィリスは「ホーム・ジャーナル」の誌上で、無実を主張するキャサリンを弁護し、フォレストは単にキャサリンの知的優秀さを嫉妬しているだけだと主張した。1850年6月17日、フォレストがニューヨーク州最高裁判所に離婚訴訟を起こした直後に、フォレストはニューヨーク州市のワシントン・スクエアで、「この男が私の妻の誘惑者だ」と叫びながら、ガタパーチャの笞でウィリスを殴った。ウィリスはこのときリウマチ熱から快復期にあり、仕返しできなかった。ウィリスの妻は間もなく、ウィリスがキャサリン・フォレストと不義の関係になっていると告発する匿名の手紙を受け取った。ウィリスはその後、フォレストを暴行で訴え、1852年3月までに2,500ドルの慰謝料と法定費用を認められた。6週間続いたフォレストの離婚裁判では、キャサリン・フォレストとナサニエル・パーカー・ウィリスが情事を持っているという証言が幾つか出てきた。その中には、この二人が「抱き合っていた」と証言した給仕もいた。新聞が報告していたように「関心を抱いた数多い大衆が」裁判所の判決を待った。最終的に裁判所はキャサリン・フォレスト有利の判決を下し、ウィリスの汚名は晴らされた。
※この「アイドルワイルド」の解説は、「ナサニエル・パーカー・ウィリス」の解説の一部です。
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