ふたたび脱漫画家
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漫画を描くことを苦痛に感じて他に職を求め、1981年に古物商の免許を取得。「ピント商会」を設立し、古本屋の経営を目指して古本漫画を収集する。また、中古カメラを質屋で安く仕入れて自分で修理し、マニア向けに転売したところ、思わぬ収入になった。成功の秘訣は、相場よりもかなり安く売ったことである。これは闇市でアイスクリームやおもちゃを安く売り成功した体験が元になっている。そこで「中古カメラ屋」に転業を試みたが、翌1982年には安い中古カメラが入手できなくなり、この「商売」は断念した。また、『無能の人』に描かれた「売石業」も、実際に試してみたが、うまくいかなかった。作家として1983年3月から「小説現代」に「つげ義春日記」を発表するが、読み物として若干私事を書きすぎたため妻に怒られ、11月で中断。妻との悶着が続いたことで、ノイローゼは悪化の一途を辿ることになる。 1984年、2年ぶりの新作である『散歩の日々』を受け取った夜久弘は、つげ作品の発表の場としてふさわしい季刊漫画雑誌『COMICばく』(日本文芸社)を創刊し、つげは毎号漫画を描くようになったが、「マイナー意識の強い自分」の作品が主体となったことに困惑する。 これら「駄目人間」としての体験を描いた『無能の人』(1985年)を刊行。つげ独自の暗さやユーモアは健在であり人気を博した。この間も仏教書や水泳での治療を試みたノイローゼだったが、発作性から慢性に移行。1987年春先から強度の不安神経症の発作に悩むようになり、3月発表の自伝的密航記『海へ』の後、6月・9月に発表した『別離』をラストに、仕事が一切できなくなる。気晴らしに子供と一緒にファミコンで遊ぶようになり、超高難易度で知られた「スーパーマリオブラザーズ2」をクリアしたことが桜玉吉らゲーム業界の人間の中で話題となる。 1987年上旬、「つげ義春研究会」研究旅行(15名)に同行し、甲斐路を訪問。点燈社の深沢、喇嘛舎の長田などが参加。宿にて午前5時まで人生について語りあかす。翌日午後に甲斐国分寺跡を訪問。本堂前で日向ぼっこをしながら「今はここは何宗なのかな」と呟く。その後、つげの提案で犬目宿に立ち寄る。犬目宿は『猫町紀行』の舞台であったが、出版した喇嘛舎の長田は「ここがどうかしたのですか?ふつうの村ではないですか?」とぼやくのに、「ホントにダメな人たちですね」とあきれ顔を示す。次に一行はやはりつげ氏の提案でその数か月前につげが"発見"したばかりの秘郷・秋山村を訪ねる。夕暮れ迫る深い峡谷の集落に灯が一つ二つ灯り、暗く哀しい「つげ義春の世界」が現出。が、長田が再び「ここに何かあるのですか?」。つげは「この人たちは景色を見る資格がないのね」と茶化すが「景色を見るにも資格がいるんですか?」と長田が応酬。集落へ入ると、つげはつげ好みの宿がないかと、威勢よく民宿を探し始めた。 1988年には自己否定の深化からひとり山奥で住んだり、乞食になることを夢想するようになり、山梨県秋山村を訪れて場所探しをする。宗教に惹かれながらも同時にどうでもよいとする開き直りの心境も経験した。同年、実売5千部だった『COMICばく』は第15号をもって休刊し、事実上の休筆状態に追い込まれる。以降、エッセイや旅行記等の文筆活動は継続するものの、漫画制作はずっと休止しており今日[いつ?]まで新作は発表されていない。
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