ふたたび留学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)
明治21年(1888年)に来日した留学時代の友人アリス・ベーコンに薦められ、梅子は再留学を決意。フィラデルフィアのモリス夫人に手紙で留学について相談すると、モリス夫人は、懇意にしているブリンマー大学のジェームス・E・ローズ(英語版)学長に梅子の受け入れを要請し、ローズ学長はそれを即諾すると共に、梅子に対する「授業料の免除」と「寄宿舎の無償提供」を約した。また、華族女学校校長西村茂樹は、梅子に同校教授として規定通りの俸給を受けながらのアメリカ留学(2年間)を許可した。 梅子は明治22年(1889年)7月に再び渡米。当時は進化論におけるネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はブリンマー大学で生物学を専攻する。梅子の2回目の留学は、当初は2年間の予定であったが、1年間の延長を華族女学校に願い出て認められた(但し無給休職の扱いとなり、代わりに1年分の手当として300円支給)。 留学3年目の明治24年(1891年)から明治25年(1892年)の冬に、梅子は「蛙の発生」に関する顕著な研究成果を挙げた。ローズ学長による、同大学理事会への1891年度報告書は「ミス・ツダの蛙の卵の軸の定位に関する研究は、その優秀性のゆえに、特に言及しておかねばならない。」(原文は英語、亀田帛子による和訳、)と特記している。そして梅子の研究成果は、指導教官であるトーマス・ハント・モーガン博士(1933年 ノーベル生理学・医学賞)により、博士と梅子の2名を共同執筆者とする論文「蛙の卵の定位」( "The Orientation of the Frog's Egg")にまとめられ、明治27年(1894年)にイギリスの学術雑誌 Quarterly Journal of Microscopic Science, vol. 35.に掲載された。梅子は、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。モーガン博士は、帰国した梅子宛の手紙(明治26年〈1893年〉10月14日付)において「私たちはあなたにすぐにアメリカに戻って欲しいといつも願っています。」(原文は英語、亀田帛子による和訳、)と、科学者としての梅子を高く評価する言葉を記している。 さらに、教育・教授法に関してはペスタロッチ主義教育の中心校として知られるニューヨーク州のオスウィーゴ師範学校で半年間学んだ。 なお、アリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究成果 Japanese girls and womenを出版する際に梅子は手助けした。これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われている。留学3年目に入った梅子は、日本女性のアメリカ留学のための奨学金設立を発起し、講演や募金活動などを始めた(→#日本婦人米国奨学金)。
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