さまざまな芸能とは? わかりやすく解説

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さまざまな芸能

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:39 UTC 版)

院政期文化」の記事における「さまざまな芸能」の解説

芸能では、貴族層前代以来歌謡である催馬楽さいばら)や神楽歌漢詩和歌名句吟ずる朗詠楽しんだ催馬楽は、日本古来民謡和歌唐楽風に編曲したもので、和琴などを伴奏として、貴族正式な宴の後のくつろいだ席などで歌われた。男女相聞歌恋歌のような歌も多い。 催馬楽 東屋(あづまや)の 真屋(まや)のあまりの その(あま)そそき 我(われ)立ち濡れぬ 殿戸(とのど)開かせ鎹(かすがい)も 錠(どざし)もあらばこそ その殿戸 我鎖(さ)さめ おし開いて来ませ 我や人妻 いで我(あ)が駒 早く行きこせ 真土山まつちやま) あはれ 真土山 はれ 真土山待つらむ人を 行きて早 あはれ 行き早見朗詠 嘉辰令月かしんれいげつ)歓無極(かんぶきょく)、千秋(ばんざいせんしゅう) 楽未央(らくびよう)嘉辰令月よろこび極まりなし千秋、楽しみは未だ央(なか)ばならず 留春不用関城固、花落随風春を留むるには用ゐず関城固めをも、花は落ちて風に随ひに入る 朗詠は、貴族正式な宴をはじめ様々な場面で歌われた。「嘉辰」は朗詠代表的な楽曲で、「嘉辰」以外は歌詞訓読するが、「嘉辰」のみはすべて音読された。保安年間1120年-1125年)に藤原基俊が『新撰朗詠集』を著している。 当時民間娯楽として人気のあった猿楽滑稽を主とした雑芸歌曲であったが、貴族社会においても注目されるようになった11世紀後半には『新猿楽記』が著されており、藤原明衡晩年の手になるものではないか考えられている。 本来は豊作を祈る田遊び芸能由来する地方農村労働歌舞であり、笛・鼓・ささらなどの囃しあわせて踊る田楽同様に貴族関心をひくようになり、やがて京都奈良にはいって芸能化されると、宮廷にも流れ込んでいった。なかでも松尾社京都市西京区)の「松尾祭田楽」や、永長元年1096年)の夏に爆発的に流行した永長の大田楽」は有名で、乱舞した人びと宮中入り、「一城の人、皆狂うがごとし」との記録がある。 当時民間流行歌謡であり、白拍子という女性芸人(しばしば遊女兼ねた)のうたう七五調四句基調とする今様貴族社会もてはやされた。後白河院もみずから10代の頃より美濃国青墓傀儡子を師として厳しく今様修練している。 院政期最大文化人大江匡房にも『傀儡子記』や『遊女記』、『洛陽田楽記』などの著作がある。大江匡房また、源義家兵法授け、それによって義家後三年の役において雁行乱れによって伏兵を知ることができたとの逸話がのこる。 このように、院をはじめとする貴族社会武士庶民の間の文化交流にはかなりの広がり見られた。これは、院政摂関家牽制するため、受領層を主な支持基盤としていたこととも無縁ではない。 これらのほか、仏教音楽としては声明、また法華経を読む読経もさかんであった

※この「さまざまな芸能」の解説は、「院政期文化」の解説の一部です。
「さまざまな芸能」を含む「院政期文化」の記事については、「院政期文化」の概要を参照ください。

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