さまざまな芸能
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芸能では、貴族層は前代以来の歌謡である催馬楽(さいばら)や神楽歌、漢詩や和歌の名句を吟ずる朗詠を楽しんだ。 催馬楽は、日本古来の民謡や和歌を唐楽風に編曲したもので、和琴などを伴奏として、貴族の正式な宴の後のくつろいだ席などで歌われた。男女の相聞歌(恋歌)のような歌も多い。 催馬楽 東屋(あづまや)の 真屋(まや)のあまりの その雨(あま)そそき 我(われ)立ち濡れぬ 殿戸(とのど)開かせ鎹(かすがい)も 錠(どざし)もあらばこそ その殿戸 我鎖(さ)さめ おし開いて来ませ 我や人妻 いで我(あ)が駒 早く行きこせ 真土山(まつちやま) あはれ 真土山 はれ 真土山待つらむ人を 行きて早 あはれ 行きて早見む 朗詠 嘉辰令月(かしんれいげつ)歓無極(かんぶきょく)、万歳千秋(ばんざいせんしゅう) 楽未央(らくびよう)嘉辰令月、よろこびは極まりなし、万歳千秋、楽しみは未だ央(なか)ばならず 留春不用関城固、花落随風鳥入雲春を留むるには用ゐず関城の固めをも、花は落ちて風に随ひ鳥は雲に入る 朗詠は、貴族の正式な宴をはじめ様々な場面で歌われた。「嘉辰」は朗詠の代表的な楽曲で、「嘉辰」以外は歌詞を訓読するが、「嘉辰」のみはすべて音読された。保安年間(1120年-1125年)に藤原基俊が『新撰朗詠集』を著している。 当時民間の娯楽として人気のあった猿楽は滑稽を主とした雑芸・歌曲であったが、貴族社会においても注目されるようになった。11世紀後半には『新猿楽記』が著されており、藤原明衡の晩年の手になるものではないかと考えられている。 本来は豊作を祈る田遊びの芸能に由来する地方農村の労働歌舞であり、笛・鼓・ささらなどの囃しにあわせて踊る田楽も同様に貴族の関心をひくようになり、やがて京都や奈良にはいって芸能化されると、宮廷にも流れ込んでいった。なかでも松尾社(京都市西京区)の「松尾祭の田楽」や、永長元年(1096年)の夏に爆発的に流行した「永長の大田楽」は有名で、乱舞した人びとが宮中に入り、「一城の人、皆狂うがごとし」との記録がある。 当時の民間の流行歌謡であり、白拍子という女性芸人(しばしば遊女を兼ねた)のうたう七五調四句を基調とする今様も貴族社会でもてはやされた。後白河院もみずから10代の頃より美濃国の青墓の傀儡子を師として厳しく今様を修練している。 院政期最大の文化人大江匡房にも『傀儡子記』や『遊女記』、『洛陽田楽記』などの著作がある。大江匡房はまた、源義家に兵法を授け、それによって義家は後三年の役において雁行の乱れによって伏兵を知ることができたとの逸話がのこる。 このように、院をはじめとする貴族社会と武士・庶民の間の文化交流にはかなりの広がりが見られた。これは、院政が摂関家を牽制するため、受領層を主な支持基盤としていたこととも無縁ではない。 これらのほか、仏教音楽としては声明、また法華経を読む読経もさかんであった。
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