語りもの文芸における位置づけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:08 UTC 版)
「説経節」の記事における「語りもの文芸における位置づけ」の解説
語りもの芸能の主流が、中世の平曲から近世の浄瑠璃に移るあいだに、さまざまな口承文芸の盛衰があり、また、相互の競争もはなはだしかったが、そのなかで有力なものとして舞曲と説経が挙げられる。 平曲は、『平家物語』を琵琶の伴奏で語る語りもの芸能であったが、これは琵琶法師という盲僧の専業によるものであった。中世も終末期に近づくと平曲の人気は衰え、それにともない盲僧はさまざまな芸能をおこなうようになったが、『言継卿記』天正20年(1592年)8月15日条には、ある座頭が平家以外に「浄瑠璃・三味線・早物語」を演じている旨の記録がある。ただし、この時期の浄瑠璃はいまだ一地方の語りものの域を出るものではなかった。 座頭による浄瑠璃語りそのものは、享禄4年(1531年)以前にさかのぼるといわれる。「浄瑠璃」という芸能の名称は三河国矢矧宿の遊女浄瑠璃御前と源義経の恋物語(『浄瑠璃姫物語』)から端を発している。中世における語りものには、『曽我物語』や『義経記』などを題材にしたものもあり、上述したように多数の下級宗教者によって語り運ばれたものであるが、そうしたなかで浄瑠璃が説経節や曲舞その他を押さえて近世に躍進したのは、内容もさることながら、語り口の力強さ、節回しなどの点で新鮮なものであったからと考えられる。三味線という琉球王国から伝わった楽器を駆使し、操り人形を利用して劇場芸能にふさわしい演出を加えたことも大きい。それに加えて、浄瑠璃興行に新しい演出をほどこした人物や音曲的要素をもたらした人びとは、盲僧はじめ従来の芸能者ではなく、むしろ素人と呼んでよい人びとが多かったのである。 舞曲(曲舞)は単に「舞」ともいい、その歴史は古く、室町期にあっては能楽にも取り入れられたが、16世紀以降は語りものの大作も手がけるようになった。織田信長が幸若舞の幸若八郎九郎を取り立て、また、他の戦国大名も幸若に属する諸派を厚遇するようになって以降、幸若舞の一派は権力と結びついた。そうしたなかには江戸期にあっては士分に取り立てられて高禄を得た例もあったが、しかし、本来の芸の継承や向上には概して不熱心となり、自分たち以外の芸能者を見下し、抑圧する側にまわったのであった。いっぽうで、そうした幸運にめぐまれなかった舞の人びとは幸若・非幸若問わず零落し、こじき同然に転落した人も多かった。起死回生を図るべく京都などでは舞座の興行も試みられたが、成功しなかった。 以上、浄瑠璃とくらべると、説経には舞曲同様、素人が参入する余地は少なかったと思われる。その意味では、浄瑠璃にみられるような従来の殻をやぶる要素には乏しかった。説経は浄瑠璃との競合関係から、その独自性を保つため、古体を維持する必要があったのであるが、浄瑠璃風の新味を出そうとしたところ、独自性が失われ、やがて衰亡してしまった。ただし一方では、一部の舞とは異なり、宮中に出入りしたり、大名や有力者に招かりたりする例がほとんどなく、権力と結びつく機会がほとんどなかった。それゆえ、舞曲にくらべれば、むしろ語りもの芸能の新しい転換には積極的で、古浄瑠璃と対抗し、あるいは妥協しながら、芸能としては相当長く生きのび、長期にわたって影響力を保持したのである。 中世の長きにわたって身分的にも経済的にも底辺に近いところにあった説経節は、近世にあっても人びとの支持を広く集めたのである。
※この「語りもの文芸における位置づけ」の解説は、「説経節」の解説の一部です。
「語りもの文芸における位置づけ」を含む「説経節」の記事については、「説経節」の概要を参照ください。
- 語りもの文芸における位置づけのページへのリンク