いろは順の使用例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:19 UTC 版)
江戸時代の町火消は、享保5年(1720年)に隅田川の西側の町屋を区分けして47組の「いろは組」が創られたことに始まり、後に1組増えて「いろは四十八組」となる。各組は「い組」「ろ組」「は組」といろは順を使った組名乗りをしていたが、「へ」は「屁」に通じて語呂が悪く、「ら」は「魔羅」を連想させて忌み言葉のようで、「ひ」に至っては「火」に通じるので論外であり、「ん」はそもそもいろは順に含まれない字のため、これらはそれぞれ「百」「千」「万」「本」の字に置き換えられた。 五十音はいろは歌と同じくらい古くからあるが、使用するのは学者に限られていた(『古事記伝』の索引や『古言梯』などは五十音順)。このため、幕末まで一般向けの類書、今でいう百科事典は、いろは順で項目が並べられていた。『色葉字類抄』『節用集』など。明治に入っても『和漢雅俗いろは辞典』(高橋五郎)などが出されている。法令全書も大正までいろは順の索引を使用している。『言海』(大槻文彦)は五十音順だが、見返しにいろは順索引がついている。 江戸期、庶民が世の中に対する様々な不満をいろは順に書き連ねた「いろは短歌」が広まる(短歌形式で書かれた)。一例として、寛政9年(1797年)に仙台藩で起こった「寛政の大一揆」の際にも広まり、いろは短歌が書かれた文が東北歴史博物館に所蔵されている。 日本の法令では、号の下位単位としてイロハを使用している。 箇条書きにおいて、条ごとに振る記号として用いられることがある。 和文モールス符号は、原則としてアルファベット順に並べた欧文モールス符号を順に「イ・ロ・ハ……」に割り当てたものである(ただし、「I」のみ濁点に対応させており、この規則から外れている)。「Z」に対応する「フ」より後の文字はすべて日本独自の符号を割り当てている。 国際会議においては、昭和18年(1943年)の大東亜会議における参加国の配列がいろは順だった。五十音順やアルファベット順に比べて、日本の順番が前に来ることが採用理由といわれる(深田祐介『黎明の世紀』文春文庫)。 日本年金機構(旧・社会保険庁)で用いられている「事業所記号」は、114カ所の事業所では五十音順を、198カ所の事業所ではイロハ順を使っている。1942年に「労働者年金保険法」が制定された頃の名残であり、日本年金機構の広報室長は「新人職員が書類を探すのに手間取るが、受給者には迷惑はかからない」としている。 音名にも当てはめられ、イタリア語式の「Do Re Mi Fa Sol La Si」(ド レ ミ ファ ソ ラ シ)、英語式の「C D E F G A B」を日本では「ハニホヘトイロ」とした。このため、Cを主音とする長調「C major」のことを日本では「ハ長調」という。 日本共産党が党大会に外国の党から寄せられたメッセージを『前衛』増刊号の党大会特集号に掲載するときの順番として使用していた時期がある(1970年代から1980年代にかけて)。 日本国有鉄道(国鉄)においては、車両称号規程に基き、鉄道車両のうち客車の車両形式の等級を表す記号に一等から「イロハ」を用いていた(例・マイテ49、スハ32等)。但し、1960年に二等級制に変更した際にすでに少数派だった「イ」を廃して「ロ・ハ」のみとなり、1969年(昭和44年)の単一等級制度以降、「特別車両」とされたグリーン車に「ロ」、普通車に「ハ」の記号が用いられている。 日本のプロ野球で、背番号が導入されたとき、阪神タイガースで「イロハ」順に背番号をつけていた。 地方競馬では主催者によっては「イロハ」順で組をつける事がある。 姫路城内の多くの門と櫓は「イロハ」順で名付けられる。 太平洋戦争中に発行された日本銀行券のシリーズ区分として「イロハ」順が用いられていた。
※この「いろは順の使用例」の解説は、「いろは順」の解説の一部です。
「いろは順の使用例」を含む「いろは順」の記事については、「いろは順」の概要を参照ください。
- いろは順の使用例のページへのリンク