『西湖三塔記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 10:14 UTC 版)
明嘉靖20-30年(1541-1551年)頃になり、『白蛇伝』という物語が形成されてきたと思われているものに『清平山堂話本 西湖三塔記』洪楩((中国語版)、こうべん)編刊がある。講釈師(説話人)の語る台本を文字化したものであり、現存最古の話本(中国語版)とされる。日本語訳は入矢義高 訳がある。青木正児は『小説「西湖三塔」と「雷峯塔」』に、西湖に鼎立せる三塔に絡んだ話が原型であるらしく思われる、としている。しかし、この話本においては未だ『雷峰塔』は登場せず『三個の石塔』となっている。 『西湖三塔記』あらすじ― はじめに蘇東坡の詩など、いくつかの歌謡を含む西湖賞賛の長いくだりがある。 南宋孝宗の淳熙年間(1174-1189年)、臨安府湧金門内に住む岳飛麾下の奚という統制官の一人むすこの奚宣賛という青年が、折しも清明節だったので母親の許しを得て、西湖に遊山に出かけた。そこで宣賛は、上から下まで真っ白の絹の着物をきた迷子の女の子を見つけた。名を問えば、西湖に住んでおり白というみょう字、祖母と遊びにでたところはぐれて道に迷ったとのこと。その女の子が宣賛の着物をつかんで手を離さないので仕方なく家に連れ帰った。女の子の名は卯奴(ぼうど)といい、家にあずかって十日あまりたった。すると表に四人轎に乗った黒衣をまとった老婆(婆婆身穿皂衣)があらわれ、迷子の祖母だと答え、宣賛にぜひお礼したいからと家に招き、宣賛は轎についていく。とある屋敷に着くと、女児の母だという白衣の婦人(白的婦人)が現れ、宣賛が娘を助けてくれたと聞き、山海の珍味を並べて歓待する。折しもそこに一人の使用人が現れ、奥様、新入りが参ったので古手を始末しましょうと進言する。奥様は、では宣賛さまの肴にしようと答えると、二人の壮漢が若い男を引っ立てて来て将軍柱に縛り付け、その腹を切り開き、心肝をとりだし奥様に差し出す。宣賛は驚愕して酒を飲むどころではない。奥様は老婆と若者の心肝を食べ終えると、宣賛に自分は未亡人なので宣賛の嫁にしてほしいと誘惑する。二人は手を取り合い蘭房(奥様の寝室)に入った。夜が明けても宣賛は引き止められ住みつくこと半月有余。宣賛は、顔が黄ばみ肌は痩せこけてきたので一旦家に帰り、また来なおしたいという。すると使用人が一人現れ、新入りが来たので古手を始末するよう奥様に進言する。奥様が連れてくるよう命じると、数人の壮漢が男前の若者を招き入れ、宣賛は心肝を取られそうになる。白卯奴が自分を助けてくれた人だからと助命懇願する。卯奴は絶対に目を開けてはならないと言い含め、宣賛を背負い、空を飛んで逃げたようだが宣賛は手で卯奴の首を探ると鳥の毛が生えているのに気づく。「着いた」との叫び声に、宣賛は目を開けると卯奴の姿はなく、城壁の上だった。帰宅し、宣賛は母親に一部始終を聞かせると仰天して、この家の位置が悪いせいだろうからと、良い場所を探し吉日を選び転居した。宣賛はまた元気になり一年がたち、また清明節を迎えた。奚宣賛は小さな弓(弩兒)を携えて飛禽(野鳥)を探していたが、ふと見ると樹上に老鴉が鳴いている。宣賛が箭を射ると命中し、老鴉は地に落ちて地上であの黒衣の老婆(皂衣的婆婆)に変身した。宣賛はとらえられ、またもや白衣の婦人と夫婦となり半月余りが過ぎる。また帰宅を申し出たために将軍柱に縛りつけられ、心肝を取られそうになるが、ふたたび白卯奴に助けられてなんとか帰宅する。事情を聴いた母親は、宣賛に家から出ぬよう諭した。とある日、龍虎山(中国語版)に行ったきりだった奚統制の弟の奚真人が訪れ、黒気が立ち昇るのを望見してやって来たという。甥に妖怪が憑いているのを知って、西湖畔の四聖観で神将を呼び出し、命じて三つの妖怪を捉えてこさせる。三妖怪は、奚家が水門をふさいでいるのを恨んでいたらしい。奚真人は神将に命じ三妖怪を打たせると姿を現し、卯奴は黒い鶏、老婆は獺(かわうそ)、白衣の奥様(白衣娘子)は白蛇であった。真人は神将に命じ、鉄の籠に取ってきて三妖怪を閉じ込め西湖に沈めさせ、衆生教化の縁で(化縁)三つの石塔をこしらえ三妖怪を湖中に鎮めた。宣賛は叔父に弟子入りし、在俗のまま出家しめでたく一生を終えた。
※この「『西湖三塔記』」の解説は、「白蛇伝」の解説の一部です。
「『西湖三塔記』」を含む「白蛇伝」の記事については、「白蛇伝」の概要を参照ください。
- 『西湖三塔記』のページへのリンク