『西渓雑録』の于山島
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朴世堂が書いた『西渓雑録』の中の「鬱陵島」の項に、ある僧侶からの伝聞として于山島の記述がある。その記述によると、その僧侶は文禄の役(1592~1593年)の時に日本の捕虜となって日本の船で鬱陵島に行ったと言っており、その後他の捕虜7人と朝鮮半島まで帰ったとしている。このときの鬱陵島と于山島の記述に、「于山島は高さが低く、天気が極めて良くなければ、また最も高い頂に登らなければ、見ることができない。」とあることから、韓国では、天気が極めて良いときに最も高い頂に登らなければ見ることができないのは、鬱陵島から見た独島(現在の竹島)しかないとしている。しかしその前文の、「二島はここからそう遠くはなく、一度風に乗れば到着することができるだろうという。」としているところでは、二島を一纏めにして朝鮮半島からそう遠くないとしていることから、日本では、この二島は朝鮮半島から見てほぼ同じ方向にあると認識されていた島であり、当時の朝鮮の地図に描かれている鬱陵島と架空の島の于山島又は竹嶼であるとしている。 原文 『西渓雑録』 鬱陵島新羅史曰 于山國島名鬱陵地名百里 (略) 嘗遇一僧自稱 壬辰之亂俘入日本 丙午隨倭船至鬱陵 島々有大山 三峯尤峻發島三面皆壁立 萬仞南邊稍開豁然亂山 若犬牙撑列水底舟道極險狹難入登岸 則白沙平鋪長松列植 山開望濶 而江水流出縁江行十餘里 則篔簹作藪不見天日大若梁柱小不減椽杠 又穿藪行十餘里 則有竹林 其脩大若篔簹竹林既窮 而原野夷曠有村居墟落 山多珍木藥草 倭方伐竹採藥 留渠守船 鄰船適有同俘七人 夜與相語 天將曉發船 以來日纔晡已 到寧海地面 云蓋 二島去此不甚遠 一颿風可至 于山島勢卑 不因海氣極淸朗 不(登最)高頂 則不可見 鬱陵稍峻風浪息 則(尋常可)見 麋鹿熊獐往々越海出來 朝日纔高(三丈 則)島中黄雀群飛來投接竹邊串 島中竹實時々漂出 形如大博棊海女拾之爲 雜佩篔簹及竹亦或漂出 一節有數尺者宜箭箆多有之 翻訳 『西渓雑録』 鬱陵島新羅の歴史書によると、于山国の島名を鬱陵といい、地名を百里という。 (略)かつて一人の僧に出会い自ら言うには、文禄の役で捕虜として日本に入ったが丙午の年日本の船に随行し鬱陵島に至った。・・・<鬱陵島の様子>・・・渠に留め船を守っており、隣の船にはちょうど同じ捕虜7人がいた。夜に相談して将官が夜明けに船を出し、早くも夕方までに寧海の地(慶尚北道 盈徳郡 寧海面)に到着した。二島はここからそう遠くはなく、一度風に乗れば到着することができるだろうという。 于山島は高さが低く、天気が極めて良くなければ、また最も高い頂に登らなければ、見ることができない。鬱陵はやや急峻で波風が収まれば普通に行くことができる。大きな鹿や獐のような鹿がおり、往々にして海を越えて出て来る。朝日が少し昇ると、島の中から黄雀の群れが竹邊串に飛来する。・・・
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