『双魚扇墜』
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次に明万暦年間(1573-1620年)頃になると、南宋時代の語り物をテキストにしたと思われる『双魚扇墜』(『孔淑芳雙魚扇墜傳』)がある。日本語訳は、今西凱夫 訳の『熊龍峯四種小説・双魚のさげさがり』がある。ここでは、白蛇でなく妖気ただよう幽霊に若い男の商人が誘惑されることになっているが、唐代の『李黄』とは異なりあわや殺されるところを真人に救われるというプロットは『西湖三塔記』と類似している。なお、明初の洪武11年(1378年)頃成立したとされる瞿佑(くゆう、(中国語版)) 撰の『剪燈新話』巻2に収録の『牡丹燈記』との類似性が示唆されている。 『双魚扇墜』あらすじ 明弘治年間(1488-1505年)、臨安府の徐大川という富翁の息子、26歳で商人の徐景春は弁当を持って遊山に出かけたが、日暮れて帰宅しようとしたところ侍女を連れた一人の美女を見かける。時の移り変わりを嘆ずる様子に景春は思わず話しかける。聞けば両親とものみに来たがはぐれてしまったとのこと。景春が名を訊くと、町の役人の次女で孔淑芳といい侍女の玉梅と西湖に仮住まいとのこと。景春は美女の住まい、幽軒と名付けられた小さな家まで送っていった。女が侍女にささやくと秋の香ただようあずまやに酒肴が並べられた。何杯か杯を重ねると女は景春を誘惑し、二人はたのしみをきわめた。先に家に帰された丁稚は景春の両親に問われるが、結局景春はその夜帰宅しなかった。徐家の隣に住む張世傑が新河壩にある孔家の墓所のそばを通りかかると、墓の中からすすりなきのような人声がきこえた。世傑が寄ってみると、一人の男が地べたにひれ伏しており酔いしれたようにわけのわからぬことを口走っている。助け起こせば隣の徐景春である。張世傑は家まで送り届け、両親に息子は妖怪に取りつかれて住んでのところであの世ゆきだと注意した。近所の老人が、この子は前世の因縁でめぐりあったのだろうから妖気も濃いはず、急いで護符をいただいて手当すれば無事にすむかも知れん、などとすすめた。大川はあわてふためき法事や神頼みをしたところ景春の病気も癒えたので、商品を仕入れ息子を臨清に行って商売させることにした。商売はうまくいき、何倍もの利益を得て息子は帰ってきた。両親は景春に縁談を探し、息子は杭郡の役人、李廷暉の娘を娶った。やがて半年が過ぎると両親はまた商売をしてくるよう促す。景春は妻の反対を押し切り、船を雇って旅立つ。常州につくと商売をしてたっぷり利益をあげ帰途についた。まず北新関の張克譲の家に行き、帳尻を合わせ、こんども丁稚を先に家に帰らせた。ちょうどその日が端午の節句だったため、張克譲は無理に景春をもてなす。申の刻になって別れを告げ、酔い覚ましに城壁に沿って歩いていくと、あの孔淑芳が前に立ちふさがる。景春はぼんやりと我を失い女と手取り合って歩いていく。女は思い出の品にと双魚をかたどった扇のさげさがり(扇墜)を景春に渡し、景春は手巾を女に贈った。そして城壁近くの地上で五更のころまで情交に耽った。そしてよろめきながら帰宅したが、起き上がることもできず「淑芳さん」と叫ぶばかり。大川はくだんの老人と相談し、法師に救いを求めることにした。次の日の朝、大川と老人は法術あらたかな真人の住む紫陽宮に参ずる。真人は「お前の息子は妖怪に魅入られて明日にも死ぬことになっている。わしにも救うことはできぬ」と断った。皆は再拝し哀願を続けると、真人はやむを得ず山を下り、法壇を立てて神将二人と城隍神と土地神を呼び出した。真人は印を結び呪文を念じると、陰鬼を捕らえ来り追放せよ、と命じた。神たちが引っ立ててきた孔淑芳と侍女を拷問した。孔淑芳は「自分は若年にて世を去り毎日無聊を託っていたが、古例にならい百年の情愛を求めて云々」と自白書を認めた。真人は二妖鬼を閻魔大王に送って処罰した。これよりのちこのあたり一帯は平穏となり、景春は子をもうけ、おわりをまっとうした。
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