「言路洞開」と「策を用いるな」
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「松平容保」の記事における「「言路洞開」と「策を用いるな」」の解説
文久2年12月24日、会津藩兵を率いて上洛する。この日は道の両側にその行列を見る市民が、蹴上から黒谷まで隙間なく続いた。容保は宿舎より先に本禅寺を休息所として旅装を礼装に改め、関白近衛邸にて天機(天皇の御機嫌)を伺い着任の挨拶をした。その後、金戒光明寺に入った。この行動が折り目正しいと、都人から好感と評価を得ることになった。 文久3年(1863年)29歳 1月2日、参内。小御所にて初めて孝明天皇に拝謁し、天杯と緋の御衣を賜う。「陣羽織か直垂に作り直すがよい」と恩詔がある。これは前年に幕府へ意見した「勅使待遇の礼を改め、君臣の名分を明らかにすること」に尽力した功であり、武士で御料の御衣を賜るのは古来稀有のことであった。 次に京市中の治安維持にとりかかる。京都守護職は夜中巡邏の制度を作り、暴徒の警戒を行った。その頃、京は過激な論を唱え暗殺と脅迫を手段とする攘夷派浪士が横行する巷と化し、治安の最も下がった状態にあり、日に2、3度は暗殺が行われ、その首や耳や手が脅迫文書と共に公卿の屋敷に投げ込まれるといった事態であった。これは攘夷派による過激な手段の幕府批判であり、邪魔となる者への殺戮と脅迫であった。しかし容保はすぐには鎮圧にはあたらず、「言路洞開」の方針を打ち出した。浪士が騒ぐのは意見が上に通らないため、話せばわかると考えた容保は「国事に関することならば内外大小を問わず申し出よ。手紙でも面談でも一向に構わない。その内容は関白を通じて天皇へ奉じる」と布告を出して発令し、幕府へも建議した。しかしこの時、一橋慶喜は「全て聞いていてはきりがない。やるならば勝手にせよ」とあしらっている。肥後の轟武兵衛、長州の久坂玄瑞が「三願(攘夷期限の設定、言論の自由、国事掛の厳選)」を願い出た時も、慶喜や松平春嶽は逮捕させようとしたが、容保だけは寛大の処置を置き、言路洞開こそが浪士鎮撫の良策だと論じている。 2月7日、山内豊信の館に首と脅迫文が投げ込まれる。容保はこれを聞いて安心できず、病を押して鷹司輔煕のもとへ伺い「この輩は天威を恐れず尊貴を侮る。罪万死に当たるが、その根底をきわめてみれば上下の事情が隔たりすぎていることによる。ゆえにあまねく令を発して言路を開く方法をとることにした。それでもなお令に従わない者、人心を惑乱させる振る舞いの者あれば、容保、職責をもって厳にこれを逮捕する。ゆえに朝廷内においてもみだりに動揺されることのないように」と述べた。 2月22日、足利三代木像梟首事件が起こる。攘夷派浪士により等持院にある足利将軍3代の木像の首が引き抜かれ、三条大橋に晒された。立てられた板札は公然とこの首を徳川に擬していた。これには容保も激怒し「尊氏には世論が様々あるが、いやしくも朝廷から官位を賜り政権を預かった者、このような尊貴の者を辱めることはそのまま朝廷を侮辱すると同じである。もし彼らに尊王の心があるならば先に言路洞開にて進言を許しているのにその令を奉さずこのような凶暴をなすはずがない。これは実に、上は朝憲をあなどり下は臣子の本分を忘れたもの。ことにその暴行は屍に鞭打つに等しい残虐の行い。暴行ここに至れば許すべからず」として町奉行に追捕を厳命した。 2月25日、過激浪士は京にいるだけでも500人はあるという噂が立ち、恐れた町奉行や三条実美から逮捕の中止を求める声が上がったが、容保は「たとえ浮浪の徒が幾百いようとも、国家の典型は正さねばならない」とした。 以後、治安維持は警戒を強めていく。ある家臣が容保に「様々な策謀が巡る混乱の時局、こちらも策を弄して参りましょう」と進言したところ、容保は「策は用いるな。最後には必ず一途な誠忠が勝つ」と家臣を叱った。容保は家臣の勤めが至らぬ時も、民から凶暴の訴えがあった時も、それらは全て自分の不肖として一言も家臣を責めなかったという。やがて家臣もこれにならい、職の責任を重んじ尽くした。
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