「検断」とは
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平安時代には朝廷が検非違使庁(京都)・国衙(諸国)に与えられた権限であり、重科(重犯。謀叛・殺害・盗賊などの重大犯罪およびその犯人)の場合には、特に追捕使を設置する場合もあった。だが、12世紀に入ると、荘園が不入の権を根拠に国衙の介入を排除して独自に荘内における検断権を行使するようになり、また寺社も自らの内部自治に基づく検断権を行使した。更に同末期に平氏政権が成立する過程で平家一門が唯一の軍事貴族として諸国守護権が認められて検断権を行使し、続いて建久新制によって鎌倉殿である源頼朝に諸国守護権が与えられて検断権を行使した。頼朝及びその後継者は鎌倉幕府を組織してその長(将軍)となり、自らの家人である御家人を侍所および守護・地頭に任じて、彼らは武家役の一環としてそれぞれの権限に基づき検断の実務を行った。朝廷は全ての検断権を放棄したわけではなかったが、検断権を実行するための軍事力・警察力に欠けていた。そのため、細分化された検断権を持つ幕府・寺社などの権門に対して違勅を犯した者の追捕を命じる宣旨を発した。これを衾宣旨と呼ぶ。鎌倉幕府は当初は鎌倉殿に与えられていた諸国守護権およびそれを根拠とする検断権に基づいて検断を実施し、守護や地頭はその家人として検断の実務にあたる存在に過ぎなかったが、鎌倉殿を継承してきた源氏将軍の断絶とその直後の承久の乱における朝廷による検断権の回収・再編の失敗と失墜によって、守護・地頭であった御家人が諸国守護権の行使の主体として浮上することになった。 検断の対象としては、謀叛・夜討・強盗・山賊・海賊・殺害・刃傷・放火など(『沙汰未練書』)の犯罪行為を指したが、検断権の行使者によって検断の対象範囲が異なる場合もある。例えば、鎌倉幕府の守護が検断権の対象としたのは当初は「関東御下知三ヶ条」(俗に言う「大犯三箇条」)に該当する大番催促(大番役に応じない者に対する処分)・謀叛・殺害に関する追捕・裁判に限定され、『御成敗式目』によって夜討・強盗・山賊・海賊も対象とされたものの、それ以外の検断権の行使は検非違使や荘園(本所・荘官)との衝突を恐れて消極的であった。また、寺社本所領の一円荘園である「本所一円領」は事実上の守護不入地であり、守護の検断権が拒絶されていた。一方、地頭には荘官としての側面も有しており、守護が検断権の対象としていない事件(主に軽微な事案)に対して荘官の一員として検断権を行使することができた。もっとも前述の本所一円領の場合には、そもそも地頭の設置自体を本所によって拒否されていたことから、地頭の検断権も存在しなかった(守護の荘園への入部と地頭の荘園への設置は対応関係にあったと言える)。更に検断には没収などの財産刑が付随し、検断を実施した者が得分として犯人の所領・資材を獲得することができた。例えば、鎌倉時代に国衙領や荘園で現地の地頭が検断を行って犯人を追捕した場合、犯人から没収した財産は国司・領家が2/3、地頭が1/3の割合で配分された。 中世日本において検断は国家あるいは領主が領域及び住民を支配するための最も重要な要素であり、更に財産刑に伴う得分の発生があったために、犯罪の軽重、発生場所、犯人の身分、更に追捕後の得分の配分を巡って、検断権を持つ複数の権力(職)の所持者が衝突することも珍しくはなかったのである。更に守護や地頭が検断の得分による所領獲得を目指す動きが生じたために『御成敗式目』では重科の跡の恣意的没収を禁止することや、犯人の田宅・妻子・資材を没収することを禁じる規定を設けている。それでも検断の権限や得分を巡る訴訟は絶えず、13世紀の末には鎌倉幕府は所務沙汰・雑務沙汰と並んで新たに検断沙汰と呼ばれる訴訟制度を整備せざるを得なくなったのである。
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