「椿井文書」に記された「由緒」
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「観音寺 (京田辺市)」の記事における「「椿井文書」に記された「由緒」」の解説
以下は、江戸時代に椿井政隆が作成した偽書である「椿井文書」に記された由緒であり、歴史的にも、地元の伝承としても正しくはない。 「椿井文書」によれば、白鳳年間(7世紀後半)、天武天皇の勅願により法相宗の僧・義淵により創建された観心山親山寺が始まりと伝えられる。その後、天平16年(744年)、聖武天皇の命で東大寺初代別当の良弁が中興し、息長山普賢教法寺と寺名を改めた。 その後、東大寺の実忠が入寺し、宝亀9年(778年)には五重塔を建てたという。法相宗・三論宗・華厳宗の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれる大寺院となった。古代・中世には普賢寺と呼ばれていた。延暦13年(794年)の火災以後、たびたび火災に遭い藤原氏の援助によりその都度復興されたが、藤原氏の衰退とともに寺運も衰えた。 永享9年(1437年)には大御堂をはじめ諸堂13、僧坊20あまりを数えた建物のほとんどが焼失した。その後、復興されたが永禄8年(1565年)の焼失後は大御堂一宇を残すのみとなった。 大御堂裏の丘陵上には塔の礎石が残り、7世紀から8世紀の古瓦が出土することから、ここが古代の普賢寺の遺構と推定されている。
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