「あさかぜ」の設定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:08 UTC 版)
「あさかぜ (列車)」の記事における「「あさかぜ」の設定」の解説
1956年(昭和31年)11月19日:このときのダイヤ改正にて、日本における第二次世界大戦後初の夜行特急列車として東京 - 博多間に「あさかぜ」を運行開始。もともと「あさかぜ」の運行に際しては、それぞれ昼行列車であるが、東海道本線で運行していた特急列車である「つばめ」・「はと」と、山陽本線運行の「かもめ」の所要時間を合算した17時間30分を目安に設定したとされる。「つばめ」・「はと」は、本改正時で全区間電気機関車による牽引に改めて東京 - 大阪間を7時間30分、「かもめ」は京都 - 博多間で関門間を除き全区間蒸気機関車牽引で10時間40分で運行されていた。この17時間30分は単純に重複する京都 - 大阪間の所要時間を除いた時間であった。実際の「あさかぜ」のダイヤとしては、両特急の到達時分を合算した17時間30分から、停車時間などの短縮5分を差し引いた17時間25分というダイヤが設定された。 また、戦前の「富士」は1944年(昭和19年)の運行末期には東京 - 博多間は20時間3分として設定されていたが、この所要時間では当時すでに22時間程度で運行されていた東京対九州急行列車群と遜色がなくなった。しかし、その運行時間が問題となった。理論上、考え得る時間帯は以下のとおりであった。「かもめ」の設定時にすでに検討されたとされる山陽特急の東京駅乗り入れ不可の代替。つまり、「かもめ」上り方始終着駅である京都駅、または大阪駅で東京駅方面の夜行急行列車「彗星」・「明星」に接続するダイヤを1列車にまとめる。この場合、設定された時間であると深夜に東京駅を発つ形になり、東京圏での利用が期待できない。 戦前の「富士」のダイヤでは午後東京駅出発し、出発日内に大阪駅に到着。翌昼博多駅に到着するダイヤを組んでいた。この場合では22時間程度で運行していた急行列車群の内、山陽本線を夜行列車とする列車群と大差がなかった。また、東海道本線部分では当時の「つばめ」・「はと」の内どちらかを延長する形とするか、特急の続行運転の形となり、また山陽本線で夜行急行列車を追い抜く形となり、不効率となる。 夕刻に東京駅を出発。関西圏を深夜帯に通過し、翌朝博多駅に到着。しかし、この際に関西圏の扱いをどうするかという問題が生じる。 「あさかぜ」のダイヤを決定する際に上記の3案のうち第3案を採用したのは、すでに関西圏を無視してでも東京対中国・九州圏を直通する需要が認められたことや、航空機の深夜便「ムーンライト号」の存在があったためとされている。 しかし、関西圏を深夜に通過させる案は大阪鉄道局からの強い反発を招いた。これに対する推進派の西部総支配人篠原武司は、九州側ダイヤを「あさかぜ」運行を前提で組んで承認を受けた後「大阪が反対するのなら、大阪駅は通さず同駅北を通る北方貨物線を経由して運転させる、迷惑はかけない」と言って説得したという。 結局、関西始発の九州方面急行列車「玄海」・「天草」を同時に登場させるということで、関西側が折れることになった。また深夜ではあるが、京都駅・大阪駅・神戸駅では客扱い停車をすることになった。 関西圏を深夜に通過するダイヤはほとんど例のない設定であったが、東京対九州間のビジネス利用に最適な時間帯設定となり、下記のような編成でありながら高い乗車率を達成するという成功を収めた。のちに、この東京対九州間の夜行特急列車群を「九州特急」と称するようになった。 1957年(昭和32年)3月19日:「あさかぜ」の混雑緩和のため東京 - 広島間で増結を行う(編成の詳細)。7月20日:「あさかぜ」混雑緩和のため、東京 - 博多間を運行する不定期夜行特急列車「さちかぜ」が運行される。「さちかぜ」は名目上臨時列車格となる「不定期列車」として運行されたが、実際には毎日運行となった。また運行ダイヤは「あさかぜ」の下り30分後、上り30分後と続行運転となった。 10月1日:「さちかぜ」定期列車化。運行区間を東京 - 長崎間とする。また、「あさかぜ」の編成組成を一部変更。「あさかぜ」の全車両東京 - 博多間の運行となる。この「さちかぜ」はのちに「平和」(へいわ) → 「さくら」となる。
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