観世流 観世流の概要

観世流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/01 14:24 UTC 版)

シテ方

シテ方観世流は大和猿楽四座のひとつ結崎座に由来する能の流儀。流儀の名は流祖観阿弥の幼名(芸名とも)である「観世(丸)」に基く。二世世阿弥は能の大成者として名高い。

現宗家は二十六世観世清和能楽協会に登録された能楽師は2006年(平成18年)の時点で560名あまりにのぼり、五流最大の流勢を誇る。一時梅若家が梅若流として独立したこともあったが、現在は観世流に復帰している。

大流であるため、内部に芸風の差があるが、豊麗で洗練された味わいが特色とされる。はギンを出さず(産み字をつけない)、高音を利かせて華やかに謡うのが特色で、も圭角の少ないまろやかなものを好む。戦後『三山』『求塚』『蝉丸 (能)』を復曲し、現行曲は210番。

歴史

観阿弥・世阿弥

流祖観阿弥清次(1333年1384年)は山田猿楽の美濃大夫に養子入りした何某の三男で[1]、結崎座の大夫(「棟梁の仕手」)となった。それまで式三番など神事猿楽を中心としていた結崎座を猿楽中心の座へと改め、中年以降は次第に猿楽の名手として大和以外でもその芸が認められるようになった。特に1374年文中2年/応安6年)頃に行われた洛中今熊野の勧進能において足利義満に認められ[1]、以後貴顕の庇護のもと近畿を中心に流勢をのばした。

二世世阿弥元清(1363年?〜1443年)はその美貌によって幼時より足利義満・二条良基佐々木道誉らの庇護を受け、和歌連歌をはじめとする上流の教養を身につけて成長した。父観阿弥の没後は、観世座の新大夫として近江猿楽犬王らと人気を争い、それまで物まね中心であった猿楽能に田楽能における歌舞の要素を取りいれていわゆる歌舞能を完成させた。足利義持の代となると、義持の後援した田楽の名手増阿弥と人気を争う一方で、『高砂』『忠度』『清経』『西行桜』『井筒』『江口』『桜川』『蘆刈』『』『』『恋重荷』などの能を新作し、『風姿花伝』『至花道』『花鏡』といった能楽論を執筆して、実演・実作・理論の諸方面で能楽の大成に努めた。

世阿弥は1422年応永29年)頃の出家と前後して、大夫を長男観世元雅(?〜1432年)に譲った。元雅は世阿弥が『夢跡一紙』で「子ながらもたぐひなき達人」と評したほどの名手で、『隅田川』『弱法師』『歌占』『盛久』など能作においても優れていた。しかし義持の没後、世阿弥の甥である音阿弥(観世元重)を後援する足利義教将軍に就任すると、1429年正長2年/永享元年)に仙洞御所での演能が中止され、醍醐寺清滝宮の楽頭職を音阿弥と交代させられるなど、さまざまな圧迫が世阿弥・元雅親子に加えられ[2]1432年(永享4年)に元雅が客死、翌1433年(永享5年)には音阿弥が観世大夫を襲う(現在では音阿弥を三世とする)。

晩年の世阿弥は『拾玉得花』を女婿金春禅竹に相伝し、聞書『申楽談義』を残すなどなお意欲的に活動したが、1434年(永享6年)、義教の命によって佐渡に配流され、ここに観世座は完全に音阿弥の掌握するところとなった。

音阿弥・信光・長俊

観世大夫を襲って後、三世音阿弥元重(1398年1467年)は猿楽の第一人者として義教の寵愛を受け、「当道の名人」として世阿弥以上の世評を博したと考えられている[3]。前代には有力な競争相手であった田楽や近江猿楽がこの時代にはほとんど駆逐され、観世座が猿楽の筆頭として室町幕府に重用された背景には、音阿弥の活躍が大きく影響していたものと思われている[4]

音阿弥の後は四世又三郎政盛(音阿弥の子)、五世三郎之重(政盛の子)、六世四郎元広(之重の子)、七世左近元忠(法名宗節、元広の子)と四代にわたって若年の大夫が続いたため、音阿弥の七男観世信光とその子観世長俊が後見として大きな役割を果した。大鼓方・脇の仕手として活躍した信光は、一方で『遊行柳』『紅葉狩』『船弁慶』など霊験や怨霊、怪奇を主題とした派手でわかりやすい能を書き、時流に迎えられた[5]。この傾向は同じく脇の仕手を勤めた子長俊にも受けつがれ、『正尊』『江野島』などより視覚に訴える平明な作が多く作られた。

江戸時代前期

宗節による『風姿花伝』第七別紙口伝の写本奥書。宗節70歳の天正6年(1578年)筆。

七世観世宗節1509年1583年)は14歳で父を失った後、長俊の後見によって成長し、1571年元亀2年)頃から浜松城在城時代の徳川家康に伺候するようになった。先代元広・長俊の没後、やや退転していた流儀の勢いを旧日に服すべく、伝書・謡本・型付の書写を旺盛に行ったことでも知られ、後代にその名を冠する書物が多く伝わっている。家康が越智観世家の三世十郎大夫から観世元雅以来伝えられてきた『風姿花伝』『申楽談儀』などの世阿弥伝書を献上されていたものを写本している。子がないため、甥の左近元盛(八世)を養子とするが早世。元盛の子左近身愛(観世黒雪)が九世を襲った(襲名した)。

九世観世黒雪(1566年1626年)は、幼少より浜松徳川家康に仕え、後に京都に進出して豊臣政権下で四座棟梁の一人として認められるものの、金春流を愛好した豊臣秀吉からは重用されなかった。 1603年慶長8年)の江戸幕府開府とともに四座棟梁の筆頭として家康から重んじられるが、数年後、駿府を出奔して高野山で出家するという事件を引き起こす。後に帰参は認められるものの、十世左近重成に大夫職を譲り、事実上の蟄居状態が続いたと見られている[6]1620年元和6年)に元和卯月本と呼ばれる謡本百番の刊行を開始し、江戸時代における観世流隆盛の基盤を築いた人物として知られる。

近世期、観世流は幕府に抱えられる四座一流の筆頭とされ、幕末まで最大の流勢を誇った。宗家が十一世左近重清(重成の子)、十二世左門重賢(重清の子)、十三世織部重記(重清の甥)、十四世織部清親(重記の子)と相続する一方、黒雪の甥服部宗巴は座付のワキ方福王家に養子入して福王流五世を相続し、隠居後には京都に移って素謡教授を専門とし、以後同地に観世流の謡が広まる地歩を築いた[7]。後に福王流七世福王盛信は信望なく、高弟の岩井・井上・林・薗・浅野のいわゆる京都五軒家が観世流に転ずるという事件を引き起こすが、以後幕末まで五軒家と禁裏能楽御用の片山九郎右衛門家が京都の観世流を主導し、いわゆる「京観世」と呼ばれる一派を成すことになった。

江戸時代後期

十五世観世元章1722年1774年)に至り、観世流は徳川家重徳川家治二代にわたる能師範を独占し、他方で上述のような京都進出を完了するなど、その絶頂期を迎えた。元章はこれらの状況を受けて、弟織部清尚(後に十七世宗家)を別家して観世織部家を立て、四座の大夫に準ずる待遇を獲得させたほか、国学の素養を生かした小書を多く創作し、さらには世阿弥伝書に加註のうえ上梓するなど、旺盛な活動を行った。なかでも1765年明和2年)に刊行の始まった「明和改正謡本」は、復曲を含む全210番組という公定の謡本としてはかつてない規模であり、田安宗武賀茂真淵らの協力によって字句の改訂を加えるなど、きわめて意欲的な内容であった。しかしこれらの改正は能楽師にとって全曲の覚え直しを意味するもので評判が大変悪く[8]、元章の死後旧に復された。ただ「」の詞章「どうどうたらり」を「とうとうたらり」と済んだ音にするなど、一部に元章が手を加えた跡が残される。

元章の後は、十六世三十郎章学(元章の子)、十七世織部清尚(元章の弟、分家初世)、十八世織部清充(清尚の子)、十九世織部清興(清充の弟、分家二世)、二十世左近清暢(清興の子)、二十一世左近清長(清暢の子)、二十二世三十郎清孝(清長の子)と相続し、清孝に至って明治維新を迎えた。

明治期

江戸幕府瓦解後、清孝は将軍家に従って静岡に下る道を選び、東京の観世流は分家の観世紅雪(分家五世、十九世宗家清興の曾孫)と観世流のツレ筆頭とされた梅若家の初世梅若実が孤塁を守ることとなった。 明治初年の衰微期を経て、1876年(明治9年)の岩倉具視邸天覧能以後、徐々に人気を回復し始めた能楽界にあって、梅若実は紅雪とともに観世流の普及に努め、ついには玄人・素人の弟子に対して梅若の名によって流儀の免状を発行するに至った。しかし宝生九郎櫻間伴馬とともに「明治の三名人」と称された梅若実の圧倒的な権威もあって、後に東京に戻った清孝には梅若家を抑える力はなかった。

梅若流の独立と復帰

梅若万三郎

清孝の跡を襲った二十三世清廉には後嗣がなく、京都の片山家から養子に入った左近元滋が相続して二十四世宗家となった。この頃になると宗家の権威も旧に復し、免状問題で二世梅若実に対して強硬な主張が行われるようになったが、交渉は難航。

最終的に1921年大正10年)、梅若実・梅若万三郎の兄弟及び分家六世観世華雪が独立して梅若流を創設するに至る。この動きは斯界に大きな衝撃を与え、三役(ワキ方・囃子方・狂言方)は宗家側を支持して梅若流の演能に出演しないことを申し合わせたため、同流の活動は行き詰まり、万三郎と華雪はいちはやく観世流に復帰。1954年(昭和29年)には代替わりした梅若実も能楽協会の斡旋で観世流に復帰し、二十数年にして梅若流は消滅した。

昭和期

24世宗家・観世左近(元滋)

一方二十四世観世元滋はきわめて政治的な手腕に優れ、梅若派に復帰を呼びかけるとともに、流儀の統一をはかり、流勢の伸張に意をつくした[9]。さらには家ごとに差の大きかった謡の統一をはかるべく、大成版謡本を企画・刊行した。

1950年代から60年代にかけては雅雪の子観世寿夫観世栄夫、観世静夫を中心とする新世代の能楽師が、演能、技法論、異分野との競演などでめざましい活躍を見せ、特に寿夫は世阿弥の再来とまで評された[10]名手で、八代観世銕之丞(観世静夫)や九世片山九郎右衛門など、その影響を受けた能楽師は多い。元滋の没後は、子の元正が二十五世宗家を相続し、現宗家二十六世清和に至る。

歴代宗家

  1. 三郎清次(観阿弥)
  2. 三郎元清(世阿弥)
    • 1363年?〜1443年?。1の子。数多くの能を作ったほか、能楽論を伝書として遺し、能の大成に寄与した。
  3. 三郎元重(音阿弥)
  4. 又三郎(正盛)
    • 1429年1470年。3の子。父と共に挙行した糺河原勧進能で名高い。「正盛」「政盛」の名で知られるが、これは後世の創作らしい[11]
  5. 三郎之重(祐賢)
    • ?〜1500年。4の子とされてきたが、実際には3の子、4の弟らしい[12]
  6. 三郎元広(道見)
  7. (三郎?)元忠
    • 1509年1584年。6の子。多くの伝書の書写・執筆に携わったことでよく知られる。晩年は徳川家康の庇護を受ける。
  8. 左近(三郎)元尚(元盛、元久)
    • ?〜1576年。7の弟・小宝生の子。後に三河で家康に仕えるが早世。
  9. 左近(与三郎)身愛(黒雪)
    • 1566年1626年。8の子。家康に仕えて四座の地位を占める。
  10. 左近重成
    • 1614年1658年。9の子。父の出奔後若くして大夫代行を勤める。
  11. 左近重清
    • 1633年1687年。10の子。長兄・三十郎重行の早世により後を嗣ぐ。
  12. 左門重賢
    • 1658年1746年。宝生大夫重友の子。29歳の時、在任4年で大夫を退き、以後は京都などで隠居生活を送り、いわゆる京観世にも影響を与える。
  13. 織部重記(滋章)
    • 1666年?〜1716年。11の弟・結崎玄入の子。徳川綱吉の命で多くの稀曲を演じたほか、習い事の整備を行う。
  14. 織部清親
    • 1693年1747年。13の子。世阿弥伝書の調査・転写を多く行う。
  15. 左近元章
    • 1722年1774年。14の子。明和の改正と呼ばれる謡本の改訂、世阿弥伝書の調査、観世銕之丞家の創設などの活動で知られる。
  16. 三十郎章学
    • 1741年1792年。15の娘婿で、9の長男に始まる観世藤十郎家の出身。15の死去時病床にあり、1週間で大夫の地位を譲る。
  17. 織部清尚
    • 1727年1782年。15の弟。観世銕之丞家初代。16に代わり大夫を嗣ぐ。明和改正謡本を廃する。
  18. 左近清充
    • 1756年1823年。17の子。観世家の勢力が弱まる中、寛政4年(1792年)突然の閉門、翌年には押込めの処分を受け、隠居に追い込まれる。
  19. 織部清興
    • 1761年1815年。18の弟。始め銕之丞家を嗣ぐが、兄に代わり大夫を嗣ぐ。
  20. 左衛門清暘
  21. 左近清長
  22. 三十郎清孝
    • 1837年1888年。21の子。当初は幼年のため銕之丞清済が大夫名代を勤める。最後の観世大夫。
  23. 清廉
    • 1867年1911年。22の子。美声を以て知られ、朝鮮での演能、能楽堂への電灯設置など新しい試みを多く行う。
  24. 元滋(左近)
  25. 元正(左近)
  26. 清和
    観世清和
    • 1959年〜。25の子。現家元。
観世清和の子、三郎太

流内の構成

大流であるためにいくつもの名家があること、すべての玄人を宗家のもとで修行させる宝生流などとは異なり一定の家格を持つ家(職分家以上)に能楽師の養成を認めていることなどから、流儀のなかにいくつかの芸系があり、おのおの一派を成している。芸風から分類すると片山家、橋岡家そのほかの職分家が宗家に近く、一方で観世銕之亟家と観世喜之家は両梅若家に近い[要出典]。主要な家柄を以下に示す。

観世宗家
現当主は観世清和。シテ方のみならず、囃子方の観世流にもその権威は及ぶ。また現在不在となっている笛方森田流の宗家を預かる。
観世銕之丞家
現当主は九世観世銕之亟(妻は井上流家元の五世井上八千代)。銕仙会を主宰。流儀のなかでは「分家」として宗家に次ぐ特別な地位を占めている。明治期以降は梅若家と関係が深く、芸風にもその影響が見られる[要出典]
観世喜之家
矢来観世家とも呼ばれる。現当主は四世観世喜之。九皐会を主宰(職分家)。観世銕之亟家の分家。初代が梅若家に養子に入っていたため、梅若系の芸風に拠る。「参考謡本」(能楽書林)という独自の謡本を発行する。
梅若家
梅若家の本家。現当主は五十六世梅若六郎。梅若会を主宰(職分家)。「梅若がかり」などと呼ばれる独自の芸風を持ち、華やかとされる観世流のなかでもいっそう華麗で巧緻な謡・型を特色とする。「創成版」(能楽書林)という独自の謡本を発行する。
梅若万三郎
梅若家の分家。現当主は三世梅若万三郎。梅若研能会を主宰(職分家)。二世梅若実の兄万三郎が再興した家であるが、おなじ梅若がかりの芸風を受けつぎつつ、本家とは型や作法などに細かな違いがあるとされる[要出典]
片山九郎右衛門
幕末まで禁裏御用を勤め、京観世の中心とされる家。現当主は九世片山九郎右衛門。近年は京舞の井上流と関係が深く、三世以降の井上八千代はいずれも片山九郎右衛門の妻あるいは娘である。また片山九郎右衛門門下の観世流の能楽師と井上流の名取りが結婚している例もある[14]。現在は「片山家能楽・京舞保存財団」を設立運営。職分家。
橋岡家
橋岡會を主宰。現在の当主は9世となる橋岡久太郎

能楽師養成の制度

観世流シテ方の場合、玄人(能楽師)の職位として、宗家、分家、職分、準職分、師範の五段階がある。以上が玄人として能楽協会に登録されるが、師範は能楽以外の別業を持つことを許される一方で、流内で純粋な玄人としては見られていない。

宗家、分家(観世銕之亟家)は完全な世襲制である。職分についてもほぼそれを世襲する家(上記の観世喜之家、片山九郎右衛門家、両梅若家など流内の名家が職分家)が決まっている。玄人は通常、職分家以上の家に5年以上内弟子に入り、師匠から宗家への推薦を得て玄人となる。師範の場合は内弟子に入る必要はない。[15]

宗家と分家は自ら家の後継者を育成する権限を持つ。また職分家は独自に玄人を養成する権利を持つ。職分家の後継者は、職分家もしくは宗家・分家などに5年間以上内弟子として入って修業することとなっている。ただしこの育成課程を終えた後もただちに職分にはなれず、準職分から始まって40歳を越えた後に審査を受け、職分となる。

また、名誉師範という称号があるが、これは長年趣味としての稽古を積んだ素人の愛好家に与えられるものであり、玄人としての資格ではない。

小鼓方

小鼓方観世流(一名・観世新九郎流)は観世座座付の小鼓方。

観世信光の孫・観世彦左衛門豊次(1525年1585年)が宮増弥左衛門親賢(1482年1556年)の弟子となって流儀を興した。宮増は大和猿楽の各座で鼓方を担当していた一族で、流儀の伝承では、初世宮増信朝、二世美濃権守吉久を加上し、親賢を流儀の三世、豊次を四世として扱っている。

代々「新九郎」を名乗り、江戸時代は観世座小鼓方筆頭として活躍したが、十四世新九郎豊成の没後、子の豊好が家芸を継がず、一時家元を預かった門弟湯浅平次(十五世)も早くに没し、家元が空位となる。維新後、姓を「宮増」に改めた家元家に石浦通宏(十六世)が養子入りして再興し、子の宮増純三(十七世・当代)が後を襲った。近年、家元家ではふたたび姓を「観世」に服し、純三が「観世豊純」を、子の新一郎が「新九郎」を名乗っている。近年の名手としては、宮増純三の実兄・敷村鉄雄が名高い。

能楽協会に登録された役者は、2006年(平成18年)の時点で4人。全員が東京在で、流勢はかならずしも盛んではない。ただし三ツ地の五拍目の掛け声を欠き、甲の音を多用するなど、譜の面で独自色のつよい流儀である。


  1. ^ a b 『申楽談儀』
  2. ^ 国史大辞典による。
  3. ^ 音阿弥については在世中から「当道の名人」「今の世の最一の上手といへる音阿弥」等の賛辞が当時の資料類に見え、没後も「希代の上手、当道に無双」と讃えられた。これは観阿弥・世阿弥まで世代の能役者が『風姿花伝』『申楽談義』など役者自身による専門的な伝書類を別にすれば、ほとんどその世評が記録されていないことと好対照を成す。音阿弥の時代には相対的に能や猿楽役者の地位が向上していたこともその一因と考えられるが、同時期に活動していた晩年の世阿弥にはこのような賛辞が見られないことを考慮すると、音阿弥はその最盛期にすくなくとも世評においては世阿弥を上回っており、それに相応した技量の持ち主であったものと思われる。このような推測は『能・狂言事典』の「音阿弥」の項(表章執筆)などが主張するところである
  4. ^ 足利義持の代までは、観世座のほかに近江猿楽日吉座、田楽新座などにも幕府の後援があり、犬王、増阿弥などのように世阿弥と人気を二分するような役者が活躍していた。ところが音阿弥の観世大夫就任と前後して、諸種の資料から田楽や近江猿楽の演能が次第に減少してゆく傾向が認められる。音阿弥に対する高い世評や、足利義教の熱心な後援を考えあわせると、世阿弥ですら不可能であった京都能界の独占が音阿弥によってはじめて現実のものになったと考えるのがもっとも自然であろう。『能・狂言事典』の「音阿弥」の項(表章執筆)参照。
  5. ^ 信光の能作には、華麗な扮装、登場人物の増加、奇抜な作り物など、視覚面の派手さを重視したものが多い。これらの傾向が作能における大衆性のあらわれであり、時の好尚を生かしたものであるとする説は、「古典文学大系」「古典文学全集」等各種の謡曲注釈類にも記された、いわば学界の通説と言ってよい。
  6. ^ 『当代記』
  7. ^ 当時はワキが地頭を兼ねていたため、地謡はシテ方とワキ方両方の職掌であった。現在でも観世流と福王流の謡の技法はほとんど同じである(大成版謡本)。
  8. ^ しかしながら、「明和改正謡本」はすこぶる不評であった。観世座の一員らしい松井某が翌年に元章を批判してひそかに書いた『砭観録』なる書に「これを用ゐば此道これ限りなん」と慨嘆しているのが、玄人筋の評価で、素人も同様だったらしい。不評の第一の原因は、改訂の度合いが大きすぎたことである。…(中略)…大成期の世阿弥の発言を350年後の能にそのまま適用しようとする無謀さに、彼は気付かなかったらしい。(表章・天野文雄『岩波講座 能・狂言 I 能楽の歴史』(岩波書店、1987年)より引用)
  9. ^ 能・狂言事典、前西芳雄「観世左近」の解説より
  10. ^ 『サライ』小学館、2009年3月5日号、129頁。
  11. ^ 観世流史参究、83〜86頁
  12. ^ 観世流史研究、118〜124頁
  13. ^ 22(清孝)の子、23(清廉)の弟で元滋の父(元義)の兄である観世真弘の子・観世某の子。
  14. ^ 實川紀プロフィール
  15. ^ 能の雑学”. www.nohbutai.com. 2023年2月1日閲覧。


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