観世清孝とは? わかりやすく解説

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観世清孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 04:05 UTC 版)

観世清孝(かんぜ きよたか、1837年天保8年) - 1888年明治21年)2月11日)とは、シテ方観世流能楽師。観世流二十二世宗家。二十一世宗家観世左近清長の子。幼名・鋠之助。通称は三十郎。また維新後、一時的に代々の通り名である観世左近を名乗っている。号は普雪(雪号参照)。幕末〜明治期の宗家であり、「最後の観世大夫」と称される。

生涯・業績

6歳で観世大夫の地位を嗣ぐが、幼年のため分家の観世銕之丞清済が名代を務めている。1852年(嘉永5年)、元服して正式に観世大夫を名乗る。徳川家慶在世中は先代からの宝生流優位の状況が続き、さらに後を継いだ徳川家定は能を好まず、以後は幕末の混乱に巻き込まれるなど、大夫としての活動は困難を極めた。

維新後の1869年(明治2年)徳川家に従って静岡に移るものの、その生活は苦しく、多くの装束などを手放す羽目となる。この間東京では、初世梅若実、五世観世銕之丞(紅雪)らが能の復興に尽力していた。1875年(明治8年)東京での能楽再評価の流れに合わせて上京するが、以上のような事情により梅若一門・観世銕之丞家と免状発行権をめぐる紛争が生じ(観梅問題)、1921年の梅若流創設の火種を作った。

後に大阪能楽殿を建設した手塚亮太郎(大西亮太郎)も10代のころ上京し観世清孝のもとで修業したとされる[注釈 1]

1888年(明治21年)、胃癌のため52歳で逝去。

長男が二十三世観世清廉。次男真弘は北海道に渡り、観世流の普及に尽力した。三男元義は六代片山九郎右衛門晋三の養嗣子となり、七世片山九郎右衛門を名乗る。二十四世観世左近は元義の長男、二十五世観世元正は真弘の孫である。義兄にワキ方進藤流最後の宗家十世進藤権之助信啓。

脚注

注釈

  1. ^ 橋岡雅雪の甥・平三郎、恒岡徳の後継と目された憲之助と3人で上京し宗家で修行したが、能楽衰退期だったため亮太郎以外は別の道に進んでいる[1]

出典

  1. ^ 『経済人』35 (6)(405)、関西経済連合会、1981年6月、59-60頁。NDLJP:2666843/31 

参考文献




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