岩崎弥太郎
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初代 三菱財閥総帥 | |
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任期 1835年(天保6年) – 1885年(明治18年) | |
後任者 | 岩崎弥之助 |
個人情報 | |
生誕 | 1835年1月9日 |
死没 | 1885年2月7日(50歳没) |
国籍 | 日本 |
配偶者 | 岩崎喜勢 |
子供 | 長女・春路(加藤高明夫人) 長男・久弥 次女・磯路(木内重四郎夫人) 次男・豊弥(養子) |
親 | 岩崎弥次郎(父) 岩崎美和(母) |
親族 | 岩崎弥次右衛門(曾祖父) 岩崎弥三郎(祖父) 小野慶蔵(祖父) 岡本寧浦(義伯父) 岩崎弥之助(弟) 岩崎小弥太(甥) 岩崎俊弥(甥) 岩崎輝弥(甥) 岩崎彦弥太(孫) 岩崎隆弥(孫) 岩崎恒弥(孫) 沢田美喜(孫) 加藤厚太郎(孫) 木内良胤(孫) 木内信胤(孫) 岩崎勝太郎(養孫) 国広勢津子(曾孫) 山村昭子(曾孫) 岩崎寛弥(曾孫) 渋沢雅英(曾孫) 高島美智子(曾孫) 澤田久雄(曾孫) 木内昭胤(曾孫) 岩崎泰頴(曾孫) 勝田紫津子(曾孫) 国広ジョージ(玄孫) 木内孝胤(玄孫) 渋沢田鶴子(玄孫) |
職業 | 実業家 |
生涯
出生
1835年1月9日、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる[3]。
岩崎家は甲斐武田家の当主武田信光の五男の一宮信隆(武田七郎)の子の岩崎貞隆(五郎貞経)が、甲斐国山梨東郡(東山梨郡)岩崎(現・山梨県甲州市勝沼町)を本拠に岩崎氏を称し、家紋も武田菱に由来するという伝承がある[3]。岩崎家はその末裔と称した信寛の代に安芸氏、長宗我部氏に仕え、関ヶ原の戦いでの功が認められた山内氏入国後は山野に隠れて農耕に従事し、江戸中期に郷士として山内氏に仕えた[3]。天明の大飢饉で一揆が起きるなど混乱し、弥太郎の曾祖父の代に郷士の資格を売り、地下浪人となった[3]。
伯母が嫁いだ岡本寧浦について学んだ[4]。安政元(1854年)年、江戸詰めとなった奥宮慥斎の従者として江戸へ行き、昌平坂学問所教授安積艮斎の見山塾に入塾する[4]。筆頭塾生は親戚の岩崎馬之助だった[4]。
安政2年(1855年)、父親が酒席での庄屋との喧嘩により投獄された事を知り帰国。奉行所に訴えたが、証人は庄屋の味方をした。「不正を罷り通すがが奉行所かよ」と訴え、壁に墨で「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と大書したため投獄された[5]。この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となった。
出獄後、村を追放されるも安政5年(1858年)、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得る[5]。東洋が参政となるとこれに仕え、土佐藩の下級藩士の一人として長崎に派遣され、清朝の海外事情を把握するためであった[6]。イギリス人やオランダ人など「異人」と通訳を介して丸山花街で遊蕩し、資金がなくなり、帰国するが無断帰国であったため罷免され、官職を失った[6]。この頃、27歳で弥太郎は借財をして郷士株を買い戻し、長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶る[6]。
吉田東洋が武市半平太らの勤皇党によって暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。しかし、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国。武市一派の讒言によるものだった[6]。(尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる)。この直後、大坂にいた井上や広田章次は岡田以蔵らによって暗殺された。帰国後、弥太郎は農事に精を出した。慶応元年(1865年)、官有林払下げ許可が下りた[6]。
開成館
当時土佐藩は開成館長崎商会を窓口に、貿易商人ウォルシュ兄弟や武器商人グラバー、クニフラー商会とも取引をしている。これら欧米商人から船舶や武器を輸入したり、木材並びに強心剤・防腐剤として使用されていた樟脳、鰹節など藩物産を販売しており、吉田東洋の甥の後藤象二郎が弥太郎に主任を命じた[7]。 慶応2年(1866年)春に起こった土佐藩物産の樟脳の市場価格暴騰により、土佐藩がクニフラー商会との間で契約不履行が生じた際には弥太郎が窓口となったが、この問題の決着は明治維新後まで長期を要した[8]。司馬遼太郎は「竜馬がゆく」でこの時の土佐藩後藤象二郎とクニフラー商会(文中ではキネプル)とのもめごとを取り上げている。 また明治維新後、グラバーは三菱に雇われる事となった[7][9]。 慶応3年(1867年)になると、吉田東洋門下の福岡藤次に同行を求められ長崎へ行く[7]。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となっていたが、慶応4年閏4月には解散し、弥太郎は藩命を受け同隊の残務整理を担当した。その後弥太郎は後藤象二郎に転勤を頼み、明治元年(1868年)、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る[10]。
九十九商会
明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として土佐開成社[11]、後の九十九(つくも)商会を立ち上げた[12]。代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助、弥太郎は事業監督を担当した[12]。明治3年(1870年)には土佐藩の少参事に昇格し、大阪藩邸の責任者となり、英語習得を奨励した[12]。私腹を肥やしていると疑われ派遣された内偵の石川七財を勧誘し、商会に入れた[12]。明治4年(1871年)の廃藩置県で彌太郎は土佐藩官職位を失ったため、九十九商会の経営者となった[13]。九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航、鴻池家や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷(現在の大阪市西区堀江の土佐稲荷神社付近)を買い戻した[13]。岩崎弥太郎は当地に本邸を構え事業を営み、三菱の発祥の地となる。邸宅跡は現在石碑が建てられている。明治期当時、外国船は日本の国内航路にまで進出しており、明治政府は「廻漕会社」を設立し幕府所有の蒸気船を与えたが太刀打ち出来ず、また三井、鴻池、小野組などに設立させた日本国郵便蒸汽船会社に、諸藩から取り上げた蒸気船を与え、運航助成金も支給したがはかばかしくなかったのに対して、九十九商会は高知—神戸航路、東京—大阪間の輸送で上潮だった[13]。
三菱商会
明治5年、九十九商会は三川(みつかわ)商会となったが、代表は川田小一郎、石川七財、中川亀之助で弥太郎の権限は曖昧不分明である[14]。
明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し、明治7年本店を東京日本橋の南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名変更した[13]。この時、土佐藩主山内家の三つ柏紋を元にして(後に岩崎家の三階菱紋の家紋の意味合いを持たせる)現在、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。[15]
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土佐山内家が用いていた「土佐柏」
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岩崎家が用いていた「重ね三階菱」
また岡山県の吉岡銅山を入手した(現在の三菱マテリアル)[16]。
弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。
台湾出兵
明治7年、台湾出兵で政府は軍事輸送を英米船会社に依頼したが局外中立を理由に拒否され、日本国郵便蒸汽船会社も軍事輸送の間に三菱に顧客を奪われることを恐れたため躊躇したため、三菱が引き受けた[17]。政府は外国船13隻を購入し運航を三菱に委託した[17]。明治8年、日本国郵便蒸汽船会社は解散に追い込まれた[17]。
日本の内外航路を独占していた欧米の汽船会社を駆逐するため横浜ー上海間に航路を開いたが[18]、米国のパシフィック・メイル(PM)社(太平洋郵船)との価格競争に陥った[19]。政府は有事の際の徴用を条件に三菱への特別助成を交付し、日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が無償供与され、政府御用達の意味を込めて「郵便汽船三菱会社」と社名変更した[19]。駅逓頭前島密はPM社営業権買取を主張し、三菱は買取に成功した[19]。PMの汽船4隻と関連施設を購入し、PM関連会社の東西汽船にも金を払い、両社が以後30年間、日本-中国間と日本の沿岸航路に立ち入らないことを約束させた[20]。その後、英国P&O社が香港・上海・横浜・大阪・東京間に進出、新興三菱に反発する顧客を取り込んだが、激しい価格競争の末、三菱は廻船貨物を担保に貸付を行う荷為替金融を導入するなど、政府と合同で保守したため、日本からは撤退した[19]。
彌太郎の依頼で福沢諭吉が推薦した荘田平五郎が入社し、会社規則で三井住友にない社長独裁を謳った[19]。福沢門下生で三菱に入ったものは吉川泰二郎(日本郵船社長)、山本達雄(日銀総裁)、阿部泰蔵(明治生命創業)がいた。明治政府は三菱に命じ、明治8年霊岸島に三菱商船学校が設立(東京商船学校)、明治11年、神田錦町に三菱商業学校が設立された[21]。
西南戦争
明治10年(1877年)の西南戦争で、政府の徴用に応じて三菱は社船38隻を軍事輸送に注ぎ、政府軍7万、弾薬、食糧を円滑に輸送した[21]。鎮圧後、三菱は金一封や銀杯が下賜され、戦費総額4156万円のうち三菱の御用船運航収入総額は299万円、当期利益は93万円(東京市年度予算超)となり、莫大な利益をあげた[21]。三菱は、無償供与された船舶30隻の代金として120万円を上納したのち、買い増して所有船61隻となり、日本の汽船総数の73%を占めた[21]。明治11年、弥太郎は、高田藩榊原家江戸屋敷(旧岩崎邸庭園)、深川清澄の屋敷(清澄庭園)、駒込の庭園(六義園)を購入[21]。
政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論した。
明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。
明治13年(1880年)、東京風帆船の株を買い占め、東京株式取引場と東京米穀取引株を買収。
明治14年(1881年)、借金漬けの後藤象二郎支援のため高島炭鉱を買い取り、長崎造船所も入手した[16]。
明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられた。
死去
明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は胃がんのため、満50歳で病死した。
弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となり、後を継いだ弟の弥之助は帝国議会の創立時に天皇から勅選され貴族院議員となった。現在では日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。
人物・逸話
失敗した事業として、樟脳事業、製糸事業、東京の水道がある[16]。
日本で初めてボーナスを出した人物である。明治9年世界最大の海運会社である英国のピー・アンド・オー社との競争で社員は給与3分の1を返上し、経費削減を実行し、ビジネス戦争に勝利したため社員に年末に賞与を支給した[16]。
注釈
出典
- ^ Iwasaki Yatarō Japanese industrialist Encyclopædia Britannica
- ^ 朝日日本歴史人物事典「岩崎弥太郎」
- ^ a b c d 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.1,三菱人物伝.「マンスリーみつびし」2002年5月号.
- ^ a b c 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.2,三菱人物伝.「マンスリーみつびし」2002年6月号.
- ^ a b 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.4,三菱人物伝.「マンスリーみつびし」2002年8月号.
- ^ a b c d e 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.5,三菱人物伝.
- ^ a b c 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.6,三菱人物伝.
- ^ 『長崎奉行所記録』及び『土佐群書集成第19巻』(高知市民図書館発行)
- ^ 『岩崎弥太郎不屈の生き方』武田鏡村、PHP研究所, Nov 16, 2012
- ^ 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.7,三菱人物伝.
- ^ 鍋島高明、高知新聞社、高知経済人列伝、P42
- ^ a b c d 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.8,三菱人物伝.
- ^ a b c d 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.10,三菱人物伝.
- ^ 佐々木誠治「近代海運業の発展と財閥」神戸大学経済経営研究32号1、1982,p3-6
- ^ vol.11 三菱マークの起源 三菱グループ
- ^ a b c d e 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.18,19,20,三菱人物伝.
- ^ a b c 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.12,三菱人物伝.
- ^ 三菱財閥 - コトバンク
- ^ a b c d e 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.13,14,三菱人物伝.
- ^ 『江戸商家の家訓に学ぶ商いの原点』荒田弘司、すばる舎, 2006 「第6章 事業の行き先に国家を見よ 三菱岩崎家の訓え」
- ^ a b c d e 成田誠一,三菱史料館,岩崎彌太郎物語,Vol.15,16,17,三菱人物伝.
- ^ 赤塚不二夫は、ビル・ゲイツは、足利尊氏は...。成功者たちの「フシギな習慣」12選 ライフハッカー 2013年9月09日
- ^ a b c d e f g h i j 佐藤朝泰 『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房、1987年4月10日第1刷発行、ISBN 4-651-70032-2、262-263頁。
- ^ 佐藤 『門閥』 264-265頁。
- ^ 岩崎家傳記刊行会 編纂 『岩崎久彌傳』 東京大学出版会、1961年12月2日発行、152頁。
- ^ 黒岩比佐子『『食道楽』の人 村井弦斎』岩波書店、2004年6月25日、188頁。
- ^ a b c 『財界家系譜大観 第3版』 現代名士家系譜刊行会、1977年12月1日発行、511頁。
- ^ a b c 『財界家系譜大観 第4版』 現代名士家系譜刊行会、1980年8月1日発行、416頁。
- ^ a b c 『財界家系譜大観 第5版』 現代名士家系譜刊行会、1982年8月1日発行、450頁。
- ^ 『官報』第479号「賞勲叙任」1885年2月7日。
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