東西ドイツ統一後
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「最低賃金 (ドイツ)」の記事における「東西ドイツ統一後」の解説
しかし、東西ドイツ統一後により、状況は急変する。 実勢レートを無視した通貨統合、旧東ドイツ地域再建のための巨額の財政移転、同地域での過剰投資と過剰消費及びそれに伴う輸入増、インフレ抑制のための金利の高め誘導等により雇用情勢が悪化(特に旧東独地域)した。 更に産業構造や労働形態の変化、労働者の個人主義的傾向の高まり等を背景として、1990年代以降の労組の組織率低下と協約締結率低下という形で危機的な状況に陥りつつあった。 実際に、ドイツの労働組合員数はドイツ統一直後の1991年と2013年を比べると、以下のように半減していた。 組合員数:1,200万人 → 633万人 労組組織率:36% → 17.7% この減少を反映する形で、産業別労働協約を適用される労働者も、以下のように減少していった。 旧西ドイツ地域:69%(1996年) → 59%(2005年) 旧東ドイツ地域:56%(1996年) → 42%(2005年) また、2009年春に予定されていた中・東欧諸国8か国の労働者のドイツへの移動の制限の撤廃が、安価な外国人労働者の大量流入を引き起こし、それが賃金の切り下げ競争が起きることにつながると考えられた。また、2005年に導入されたハルツ第4法(英語版)手当制度の下では、低賃金部門への就職圧力が高まっていった。 それら複数の要因が重なり、労使だけで賃金の下限を設定し、その協約賃金を労働者全体に行き渡らせることが次第に困難になった。 最低賃金制度導入に関する議論が2000年代前半のシュレーダー中道左派政権期に本格化し、シュレーダー政権末期に法定最低賃金導入の要求が提起された。 提起された背景には、ハルツ4法に対する批判であり、SPD党内では、この批判に対処しなければならいないという考えがあった。ラインラント・プファルツ州首相でもあったクルト・ベックが「ドイツにアメリカのような雇用関係があってはならない」と発言したことは、それを象徴するものであった。 しかし、いままで協約自治システムをとっていたため、CDU/CSUとSPD右派は導入を反対した。そのため、SPDは、最低賃金制度導入ではなく、すべての業種において労働協約に基づく最低賃金の導入を目指すとする立場をとり、2005年連邦議会選に臨んだ。 選挙結果により、左翼党・民主社会党が躍進し、CDU/CSUがSPDと共に過半数が取れない状況を受け、第1次メルケル大連立政権の下でそれまでの方向性を転換し、「中道」路線を強調し始めた。 その一環として、CDU/CSUは「コンビ賃金(低賃金の雇用と賃金助成を組み合わせた雇用促進策。低賃金労働を受け入れた労働者に対して賃金の一部などを公的に援助することによって、一定の生活を保障しながら、低賃金労働市場の雇用創出を図る政策)」路線を事実上放棄し、派遣労働者も含めた全労働者対象の最低賃金制度導入の方針を受け入れ、導入する動きが広がった。 そして、ドイツ労働総同盟(DGB)と同調して、業種・ 地域ごとの最低賃金だけでなく、統一的な法定最低賃金を導入するという主張を前面に押し出した。 2009年連邦議会選挙後には、CDU/CSUと自由民主党(FDP)による第2次メルケル中道右派政権が樹立された。FDPは最低賃金制度導入には反対したが、SPDに対抗し、「社会的公正」への配慮を有権者へ示す為、導入の動きは進んでいくこととなる。 こうして、政権時代に積み残されていた業種レベルでの最低賃金導入がSPDとの交渉の下に実現されるとともに、CDU/CSUは「賃金の下限」という表現で、事実上の導入反対を放棄した。 また、別の方面から、食料・飲料・旅館業労働組合(NGG)により粘り強く要求されてきた。その理由は、 これらの産業では、使用者団体がないか、あっても低賃金交渉を拒否してしまうこと 仮に労働協約が出来たとしても、低水準の最低賃金しか獲得できないと考えられたこと であった。 こうして、2013年連邦議会選挙の結果、再び大連立政権が樹立されることになった時、この選挙において議席を失ったFDPを含めて、すべての主要政党は事実上法定最低賃金の導入を支持するか、少なくとも反対を放棄するに至っていた。
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東西ドイツ統一後
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「FCザクセン・ライプツィヒ」の記事における「東西ドイツ統一後」の解説
ドイツ統一の過程で1990年にクラブが再編される。同年3月、チームはFCグリューン-ヴァイス・ライプツィヒ (FC Grün-Weiß Leipzig) に名前を変更。さらに8月にSVヒェミー・ベーレン (SV Chemie Böhlen) と合併し、現在のFCザクセン・ライプツィヒが成立した。 2000-2001シーズンに1度目の債務超過に陥った。 2008年より新たに再編されたレギオナルリーガ・ノルト(4部)に所属。2008-09シーズン中の2009年2月、チームは2度目の債務超過に陥り、オーバーリーガに降格。2009-10シーズンは本拠地をかつてホームスタジアムであったアルフレート・クンツェ・シュポルトパルクに移した。 2011年5月30日、債務処理の一環としてチームは協会登録 (Vereinsregister) を抹消し、チームは2010-2011シーズンをもってその歴史を終えた。
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東西ドイツ統一後
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「ベルリンの行政区」の記事における「東西ドイツ統一後」の解説
1990年に東西ドイツが統一すると、当面、全区がこれまでと変わらず存続し、一律に「区 (Bezirk)」称することとなった。2000年までは全23区を数えたが、面積と人口は区ごとに大きな差があった。2001年の行政改革の一環として全12区へ再編され、大ベルリン法と類似の番号付与方式で(上記参照)、いわゆる区コード (Bezirksschlüssel) が振られた。ほとんどの新設区は2区合併によるものであったが、ノイケルン区、ライニッケンドルフ区、シュパンダウ区は現状のままとされた。なお現在のパンコウ区とミッテ区 は、それぞれ近隣3区が合併したものである。フリードリヒスハイン=クロイツベルク区とミッテ区は、かつての東ベルリンと西ベルリンの境界を超え編成された。 [01] ミッテ区 (ティーアガルテン、ヴェディング) [02] フリードリヒスハイン=クロイツベルク区 [03] パンコウ区(プレンツラウアー・ベルク、ヴァイセンゼー) [04] シャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区 [05] シュパンダウ区 [06] シュテーグリッツ=ツェーレンドルフ区 [07] テンペルホーフ=シェーネベルク区 [08] ノイケルン区 [09] トレプトウ=ケーペニック区 [10] マルツァーン=ヘラースドルフ区 [11] リヒテンベルク区(ホーエンシェーンハウゼン) [12] ライニッケンドルフ区 (大かっこ内は区コードであり、丸かっこ内は合併の際、名称が残らなかった旧区名である。) 多くの合併区では新区名をめぐり長く対立が続いた。また一部の区では区の紋章制定に長期を要した。 公共機関の名称の多くは、今日もなお旧区画に則ったものである。例えばティーアガルテン区裁判所(ドイツ語版)、ティーアガルテン市営水泳場 (Stadtbad Tiergarten)、ヴェディング区裁判所(ドイツ語版)の所在地は現ミッテ区にあり、詳細な地区名ではモアビート(ドイツ語版)地区やゲズントブルンネン(ドイツ語版)地区である。ベルリン内の交通標識は、今日もなおその多くが1920年の区画に基づいている。
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東西ドイツ統一後
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「サッカードイツ代表」の記事における「東西ドイツ統一後」の解説
1990年のドイツ再統一により、東西のナショナルチームが合体。ナショナルチームの名前から「東」「西」が外れた「ドイツ代表」が再生した。このチームは大半が旧西ドイツ代表選手で占められたが、旧東ドイツからはマティアス・ザマーが選出され、やがて統一ドイツ代表の主力となった。 ベルティ・フォクツに監督が変わり、統一ドイツとして初めての国際舞台は1992年、スウェーデンでの欧州選手権だった。クラウス・アウゲンターラー、ピエール・リトバルスキーが代表から引退した以外は90年W杯のメンバーはほとんど不動で、グループリーグでオランダに2年前の借りを返されたものの、準決勝で地元のスウェーデンに3-2と競り勝って決勝に進出。しかし、急遽の代替出場ながらもイングランド、フランス、オランダと強豪国を抑えて決勝に進出したデンマークの勢いに圧され、0-2で敗れ準優勝に終わった。 1994年アメリカW杯。欧州のTV中継時間に合わせるため、デーゲームが続いたことでベテラン揃いのドイツはアメリカでの殺人的な暑さに苦しめられた。準々決勝までたどり着いたが、ボリビア、韓国、ベルギーに勝利するも1点差、内容でも苦しい勝負が続いた。準々決勝のブルガリア戦、ドイツは後半2分にマテウスがPKで先制するが、30分にストイチコフにFKを決められると、その3分後にはヨルダン・レチコフにダイビングヘッドを決められて1-2で敗退。この大会を最後にギド・ブッフバルト、ルディ・フェラー、アンドレアス・ブレーメなどの4年前の優勝メンバーは代表を引退したが、フォクツは留任となった。 1996年、イングランドでの欧州選手権ではマテウスの後継者として攻守に貢献したザマーの活躍で優勝した。特に、地元イングランド相手にPK勝ちした準決勝、そして決勝ではチェコ相手に苦戦しながらもゴールデンゴールでの逆転勝利を収めた。ザマーの他にもオリバー・ビアホフ、クリスティアン・ツィーゲやメーメット・ショルといった新戦力が台頭していた。 しかし、ザマー、ショルは2年後のフランスW杯を長引く故障で辞退。ザマーの代役にフォクツの最終的にとった策は、37歳のマテウスの代表復帰だった。組み合わせにも恵まれ、準々決勝まで進んだが、ベテランに頼るチームは準々決勝のクロアチア戦で0-3の完敗。世代交代が必要なことは明らかとなった。大会後、フォクツは辞意を表明したが、世代交代を先送りしてきた代表チームの現状からか後任が決まらず、すぐには辞められない事態となった。1998年10月にエーリッヒ・リベックが後任監督となり、フォクツは退任となった。 しかし、リベックは指導者として約2年のブランクがあり、選手の把握やコミュニケーションが当初から心配されていた。2年後のオランダ、ベルギーでの欧州選手権、彼もマテウスを招集した。世代交代を先送りしたツケが回り、結果は1分2敗のグループリーグ最下位。得点は初戦のルーマニア戦の1点のみで、最後のポルトガル戦は、既に1位通過を決めてメンバーを落としてきた相手に0-3の惨敗という内容だった。リベック、そしてマテウスには批判が浴びせられ、両者共に代表を去った。後任には中堅クラブのレバークーゼンを率いてブンデスリーガの強豪に育て上げたクリストフ・ダウムに一旦は内定したが、ダウムのコカイン服用が明らかとなり取り消された。結局、90年W杯優勝の立役者の1人で、コーチ経験のないルディ・フェラーが監督に就任する事となった。 日韓W杯予選は大苦戦の連続だった。イングランドと同組だったが、予選初戦だったアウェーで1-0と勝ったものの、その後のホームでは1-5と惨敗。予選で敗れたのは1986年大会での、突破確定後に行われたホームのポルトガル戦以来2度目だった。それでも最終戦に勝てば1位で出場権獲得が決まるという状況だったが、ホームでフィンランド相手にスコアレスドローに終わり、2位で回ったプレーオフの末にウクライナを破って出場権を獲得した。予選での状態から大会前にドイツを優勝候補に上げる声はあまり聞かれず、グループリーグではアフリカの雄カメルーン、予選でオランダを蹴落としたアイルランドと同組となった事で、グループリーグ敗退も囁かれていた。 しかし、本大会に入るとこれまでの不振を払拭するように快進撃を見せる。初戦のサウジアラビア戦を8-0で圧勝すると、アイルランドには終了間際に引き分けに追いつかれたが、第3戦のカメルーン戦では退場者を出しながらも2-0と勝利し、グループリーグを首位で通過。そして、当初決勝トーナメントでの激突が予想されたポルトガル、イタリア、スペインといった強豪国が先に敗退し、対戦相手に恵まれた決勝トーナメントでは、パラグアイ、アメリカ、韓国をそれぞれ1-0で手堅く降し、決勝戦まで勝ち上がった。しかし、大会を通じて初の強豪国との対戦となった決勝のブラジル戦では、攻撃の柱のミヒャエル・バラックが累積警告で出場停止になったこともあり、ブラジルの分厚い攻撃力を前に0-2と完敗した。なお、この大会ではミロスラフ・クローゼ、トルステン・フリンクス、クリストフ・メツェルダーなど、次代を担う若手選手が台頭している。 2004年の欧州選手権ではオランダ、ラトビア、チェコと強豪揃いのグループに組み込まれた。初戦のオランダ戦は1-1のドローでまずまずのスタートを切ったが、格下のラトビアとの2戦目をスコアレスドローで終える誤算となり、3戦目では既にグループ1位で決勝トーナメント進出を決め、メンバーを落としてきたチェコ相手に1-2の逆転負け。攻撃力が振るわずに決勝トーナメント進出を逃し、フェラーは監督を辞任した。 2006年のワールドカップドイツ大会は「ドイツ代表」がホストとなる最初の大会になった。フェラーの後を継いだ監督のユルゲン・クリンスマンは若手を積極的に登用したが、親善試合では結果が出せず、大会直前には日本代表と引き分けるなど地元開催ながら下馬評は決して高いものではなかった。しかし、ホームでの圧倒的なドイツ国民の声援と大会得点王となったクローゼや、ルーカス・ポドルスキの活躍を受けてグループリーグを突破、決勝トーナメント1回戦でスウェーデンを、準々決勝では優勝候補の一つに挙げられていた因縁のアルゼンチンをPK戦の末破り、準決勝進出。しかし、準決勝では相性の悪いイタリアに延長の末敗れ、2大会連続の決勝進出はならなかった。3位決定戦では、ポルトガルを下して3位となっている。クリンスマンはワールドカップ後に辞任し、ヨアヒム・レーヴが監督となった。 レーヴ新監督のもとスタートしたUEFA EURO2008予選は、グループDで8勝3分け1敗となり、チェコに次ぐ2位で通過した。本選では、オーストリア、クロアチア、ポーランドと同組のグループBに組み込まれる。EURO本大会では1996年大会の決勝以来勝利がなかったが、初戦でポーランド相手に2-0で勝利し、12年ぶりの白星を獲得した。続くクロアチア戦には1-2で敗れるも、最終節でオーストリアに1-0と勝利し、グループ2位で決勝トーナメントに進出した。準々決勝ではポルトガルを、準決勝ではトルコをそれぞれ3-2で破り、決勝進出を果たすもスペインに0-1で敗れ準優勝となった。大会を通じて、躍進を期待されたマリオ・ゴメスが不発の一方、キャプテンのミヒャエル・バラックがチームを引っ張り、ルーカス・ポドルスキがグループリーグで3得点を挙げるなど、チームの勝負強さを見せつけた。UEFA公式の23人の大会優秀選手にはバラック、ポドルスキ、フィリップ・ラームの3人が選出された。 2010年のワールドカップ南アフリカ大会では、攻撃の要であるミヒャエル・バラックを怪我で欠くなど主力に故障が相次いだが、メスト・エジルやトーマス・ミュラーなどの若手が十分にその穴を埋めた。グループリーグではセルビアに敗れたものの2勝1敗で突破し、決勝トーナメント1回戦では因縁の相手イングランドを鋭いカウンターで4-1と下した。しかし、この試合はイングランドのフランク・ランパードの放ったシュートが明らかにゴールラインを超えていたのにも関わらず審判がノーゴールの判定を下すという誤審があり問題となった。一部では1966年のハーストの「幻のゴール」のリベンジなどと報じられた。準々決勝では、1990年大会の決勝を最後にAマッチ6試合勝利が無かったアルゼンチンにも4-0と圧勝した。しかし、欧州選手権決勝の雪辱を果たすべく臨んだ準決勝でスペインに再び敗れ、2大会ぶりの決勝進出は出来なかった。しかし、3位決定戦ではウルグアイを下し、2大会連続で3位となった。なお、この大会では、ドイツの試合結果を予言するタコのパウルが本大会のドイツ戦の勝敗をすべて的中させ、話題となった。 2012年の欧州選手権では予選を全勝で突破し、本大会でもポルトガル、オランダ、デンマーク、ギリシャに4連勝して準決勝まで進んだが、マリオ・バロテッリのゴールなどで苦手のイタリアにまたしても敗れた。 2014年のワールドカップブラジル大会では、1次リーグ・グループGを2勝1分けで1位通過、決勝トーナメント初戦のアルジェリアには延長までもつれて苦戦したものの2-1で下し、準々決勝では1-0でフランスを退け、4大会連続の準決勝進出を決めた。開催国ブラジルと2002年の決勝以来の対戦となった準決勝では、ネイマール、チアゴ・シウヴァを欠くブラジルに対し前半だけで5点を奪い、7-1で圧勝(ブラジルが歴史的惨敗を喫したため、開催地にちなんで「ミネイロンの惨劇(または、ミネイロンの悲劇)(Mineiraço)」などと呼ばれた)した。この試合ではクローゼが2点目を決めてワールドカップの通算得点記録を16とし、単独トップに立った。決勝では3大会連続の対戦となるアルゼンチンに対し、延長戦までスコアレスでもつれたが、延長後半8分に途中出場したマリオ・ゲッツェがゴールを奪い、この1点を守り切って西ドイツ時代から通算して4度目、東西ドイツ統一後初めての優勝を決めると同時に南米で開催されたワールドカップで初めて優勝した欧州のチームとなった。また大会を通じて活躍したキーパーのマヌエル・ノイアーが最優秀ゴールキーパーに選出された。大会終了後に発表されたFIFAランキングでは、20年ぶりに首位に返り咲いた。一方で、長年代表で主力として活躍したフィリップ・ラーム、クローゼ、ペア・メルテザッカーの3人が代表引退を表明した。 2016年の欧州選手権本大会ではグループリーグを首位で通過し、ラウンドオブ16ではスロバキアに勝利、準々決勝では前大会の準決勝で敗れていた苦手のイタリアに延長PK戦の末に勝利した。しかし、準決勝で開催国フランスに敗れた。大会終了後、2018年のロシアW杯までレーブ監督の続投が決まり、シュヴァインシュタイガーとポドルスキが代表引退を表明した。 前回ワールドカップ 優勝国として、自国開催以来3大会ぶりに出場したFIFAコンフェデレーションズカップ2017では、グループB首位から、準決勝でメキシコ、決勝でチリを破り同大会初優勝を果たす。 2018年のワールドカップロシア大会では、グループF初戦でメキシコにイルビング・ロサノのゴールで0-1で敗れた。2戦目のスウェーデンでは先制を許したものの追いつき、試合終了間際にトニ・クロースのゴールで2-1と辛勝した。3戦目の韓国戦では、再三の決定機をGKチョ・ヒョヌの好セーブの前に決めきれず、逆に後半アディショナルタイムにキム・ヨングォンに先制ゴールを許し、その後パワープレイに出たところをGKマヌエル・ノイアーが相手陣内でボールを奪われ、ロングパスからソン・フンミンに2点目を決められて敗れた。結局1勝2敗勝点3、得失点差と直接対決の結果がともに勝点で並ぶ韓国を下回り、グループFの最下位で大会を終えた。グループリーグ方式が導入されて以降初のグループリーグ敗退となり、併せてノックアウトステージへの連続出場、連続ベスト8、連続ベスト4などの記録もすべて途切れることとなった。ワールドカップ本大会で1勝しか挙げられなかったのは、西ドイツ代表として出場した1978年アルゼンチン大会以来40年ぶりで、総得点2点は、1938年フランス大会の3点(同点再試合を含む2試合)を下回る過去最低記録となった。また、2010年大会のイタリア、2014年大会のスペインに続いて、前回大会優勝国が3大会連続でグループリーグ敗退となった。さらに、1998年フランス大会から続く、ワールドカップ前年開催のコンフェデレーションズカップ優勝国はワールドカップ本大会で優勝出来ないというジンクスも継続することとなった。 1年延期され2021年に開催されたUEFA EURO 2020では、グループリーグの第1戦でフランスに敗れるも第2戦でポルトガルに勝ち、第3戦でハンガリーと引分け勝ち点4の2位で通過。ラウンドオブ16ではイングランドに敗れた。この大会でレーヴ監督は退任し、後任はハンジ・フリックとなった。
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東西ドイツ統一後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 21:31 UTC 版)
「サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)」の記事における「東西ドイツ統一後」の解説
1990年のドイツ再統一によって、旧東ドイツ出身の選手も自国選手として登録が可能になったことで、旧西ドイツに所属する有力クラブは旧東ドイツ代表クラスの有力選手を獲得するようになり、1991-92シーズン以降は旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)のDDRオーバーリーガに所属していたクラブも参加する様になった。しかし資金力の差などから旧東ドイツに本拠地を置くクラブは下部リーグに所属する事が多く、現在においてもブンデスリーガ1部には旧西ドイツ地域のクラブが多く所属する。
※この「東西ドイツ統一後」の解説は、「サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)」の解説の一部です。
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