大ベルリン法
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1920年4月27日の「新都市自治体ベルリンの編成に関する法律 (Gesetz über die Bildung einer neuen Stadtgemeinde Berlin)」は、略して「大ベルリン法」と呼ばれる。1920年4月25日にプロイセン自由州(邦)議会で投票が行われ、SPD、USPD、DDPが賛成、DNVP、DVP、中央党が反対であった。同法は、賛成164票、反対148票、棄権5票で可決され、1920年10月1日に発効した。従来の都市自治体ベルリンに、以下の6つの郡独立都市自治体、ベルリン=リヒテンベルク(ドイツ語版)、ベルリン=シェーネベルク(ドイツ語版)、ベルリン=ヴィルマースドルフ(ドイツ語版)、シャルロッテンブルク(ドイツ語版)、ノイケルン(ドイツ語版)、シュパンダウ(ドイツ語版)、また周囲のニーダーバルニム郡(ドイツ語版)、オストハーフェルラント郡(ドイツ語版)、テルトウ郡(ドイツ語版)から59の農村自治体、27の領地区域(ドイツ語版)、そしてテルトウ郡の都市自治体ケーペニック(ドイツ語版)が合併された。その際に奇妙な特殊事案が発生した。それはベルリン王宮の一帯である。従来は一個の独立した領地区域であり、この法律によってはじめてベルリンの行政区域となった。それまでのベルリンの人口は190万人であったが、これに190万人が加わった。その内の120万人はベルリン周囲の7都市の人口である。市域は66 km²から878 km²へと拡大した。こうしてベルリンは数年の間、世界的に見ても面積では第2位、人口ではロンドン(730万人)、ニューヨーク(560万人)に次いで、第3の都市となった。 ベルリン都市郡は既に1881年にブランデンブルク州(ドイツ語版)から分離していたが、編入した自治体とともについにプロイセン自由州(邦)内に州のような機能を備えた別個の行政管区が創設されたのであった。大ベルリンには当初、下記の20区が置かれた。 ベルリンの旧市域(アルト=ベルリン(ドイツ語版) )から、ミッテ区(ドイツ語版)、ティーアガルテン区(ドイツ語版)、ヴェディング区(ドイツ語版)、プレンツラウアー・ベルク区(当初は「プレンツラウアー・トーア (Prenzlauer Tor) 区」)、クロイツベルク区(ドイツ語版)(当初は「ハレッシェス・トーア (Hallesches Tor) 区」)、フリードリヒスハイン区(ドイツ語版)(シュトラーラウ(ドイツ語版)を含む) 編入された都市、農村自治体、領地区域から、シャルロッテンブルク区(ドイツ語版)、シュパンダウ区、ヴィルマースドルフ区(ドイツ語版)、シェーネベルク区(ドイツ語版)、ノイケルン区、ケーペニック区(ドイツ語版)、リヒテンベルク区、パンコウ区、ライニッケンドルフ区、シュテーグリッツ区(ドイツ語版)、ツェーレンドルフ区(ドイツ語版)、テンペルホーフ区(ドイツ語版)、トレプトウ区(ドイツ語版)、ヴァイセンゼー区(ドイツ語版)。 区名は、それぞれ編入された最大の都市、または農村自治体の名称がつけられた。 行政区は一連の自治行政を掌るが、編成の際は「ブルジョワ的」区と「プロレタリア的」区が均衡するよう考慮された。それにもかかわらず1923年までは、ベルリンからの離脱運動があったものの、全て失敗した。この法律が目的としたのは、統一的な都市計画と都市設計の実現である。これはまたベルリンが1920年代に世界に名だたる国際都市に飛躍するための重要な基礎となった。 この法律は今日も有効である。1990年の統一条約の際、連邦州としてのベルリンの拡大と境界を定義するための公式声明で言及された。
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