市川市 歴史

市川市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 19:00 UTC 版)

歴史

前史

歌川広重『名所江戸百景 鴻の台とね川風景』(里見公園付近の風景)

市川市域に人が住みはじめた歴史は古く、市内北部の台地上には旧石器時代の遺跡が多数存在する(丸山遺跡、権現原遺跡、今島田遺跡等)。縄文時代の遺跡としては、堀之内貝塚姥山貝塚曽谷貝塚等の国の史跡となっている貝塚遺跡があり、その他の貝塚を含めた遺跡数は約60ヶ所にのぼる国内最大級の集中度で、縄文時代には栄えた地域となっていたことが分かる。さらに、弥生時代の遺跡も多数存在する(須和田、杉ノ木台、小塚山、宮久保、国府台等)。

市川市の中でも、国府台より広がる高台は、常に市川一帯の歴史を担ってきた。古墳時代初めには小集落ができ(北根、前原、鳴神山、杉ノ木台)、多くの古墳が築かれた。法皇塚古墳(東京医科歯科大構内)、弘法寺古墳(真間山弘法寺敷地内)、明戸古墳(里見公園内)の3基の前方後円墳のほか、国府台近辺だけで約30ヶ所の古墳があったと推定されている(国府台古墳群)。

下総国府

下総総社跡(国府台公園)国府跡も周辺と推定される

律令制により国府台に国庁国府が置かれ、下総国の中枢となった。国府関連施設と思われる遺跡が発掘されている。市川市には下総国の国分寺・国分尼寺が所在していたとされており、その跡も発掘されている。

下総国分寺跡

国分寺跡の伽藍は現在の下総国分寺と重複する位置にあり、金堂跡は現在の本堂の場所にあたる。ただし、塔は西に、金堂・講堂は東に傾いており、堂塔の向きは一定ではない[14]。一帯は須和田遺跡や国府跡推定地が残り、古くから文化的中心地であった。

  • 金堂 - 東西31.5メートル、南北19メートル。
  • 講堂 - 本堂裏の墓地内に位置する。東西26メートル、南北18メートル。
  • 七重塔 - 18メートル四方。礎石は本堂前に移動されている。

下総国分尼寺跡

国分寺北東の市川市国分4丁目(北緯35度44分47.56秒 東経139度54分46.70秒 / 北緯35.7465444度 東経139.9129722度 / 35.7465444; 139.9129722 (下総国分尼寺跡))に所在する。1932年の発掘調査で金堂・講堂の基壇が確認されるとともに「尼寺」と書かれた土器が出土し、位置の確定に至った[15]。なおそれ以前は、当地はかつて「昔堂」と呼ばれ、国分僧寺跡と考えられていた[16]

発掘調査により寺の範囲を区画する溝が北・東・南で確認され、北溝は340メートル・東溝は303メートルに及び寺域は不整な方形をなしている[15]。現在は市川市営の国分尼寺跡公園として管理されている。

  • 金堂 - 東西25.5メートル、南北22.4メートル。
  • 講堂 - 東西27メートル、南北19メートル。

中世・近世

10世紀には平将門の乱に巻き込まれ、12世紀には石橋山の戦いに敗れて安房国に落ち延びた源頼朝が、上総広常と下総国府で合流して軍勢を立て直した。15世紀には太田道灌国府台に仮陣を置き、その弟の太田資忠国府台城を築城した。16世紀には、国府台城は、里見義堯里見氏後北条氏との間で2度にわたり戦われた国府台合戦の舞台となった。戦国時代には市域の大半は千葉氏やその重臣の高城氏領域であったが、小田原征伐で没落する。

江戸時代には一部が栗原藩の支配地だった時期もあるが、大部分は幕府領(天領)・旗本領とされた。特に行徳地区では徳川家康の意向により塩田が整備された(行徳塩田)。

近代・現代

戊辰戦争の際には、江戸を脱出した大鳥圭介が率いる旧幕府陸軍が、国府台に集結した。これに土方歳三らの新撰組も合流した。すぐに大鳥・土方らは宇都宮を経て日光へ向かったが、その後、別の旧幕府軍(撤兵隊)と官軍の戦いが、この台地下の市川から船橋にかけて戦われた(市川・船橋戦争)。

1875年(明治8年)には、教育機関の最高学府として国府台大学校計画(この計画は岩倉使節団 に随行して欧米諸国の大学校を調査してきた田中不二麿を中心に「欧米二通ズ真ノ高等大学校」の実現を目指して計画されたもので、現在の東京大学とは別の教育機関として構想されたものだった。)が持ち上がり、具体的なもまとまり、土地の買収も進められていたが諸事情により実現しなかった。

1885年(明治18年)には、都心からのアクセスがよく、渡河訓練をはじめ、各種訓練に適した立地に恵まれていたことから、大学校用地跡に陸軍教導団が置かれた。教導団は1899年(明治32年)に廃止されたが、その後、陸軍の野砲兵連隊・国府台陸軍病院などが置かれ、市川は軍都として栄えた。

歌川広重『名所江戸百景 真間の紅葉手古那の社つぎ橋[注 3]

第二次世界大戦では、13回の空襲被害を受けた。最大の物的被害が生じた空襲は1945年(昭和20年)2月25日のものであり、東京都内を標的としたものが悪天候などにより市川市内に着弾。市川新田地域と中山法華経寺門前であり、70戸余りの家屋が全焼した[17]

終戦後、陸軍の広大な土地は、国立国際医療研究センター国府台病院(旧・国府台陸軍病院)、市川市スポーツセンター(国府台公園)、東京医科歯科大学千葉商科大学和洋女子大学筑波大学附属聴覚特別支援学校千葉県立国府台高等学校、市川市立第一中学校、千葉県血清研究所の各施設に変わった。

国府台周辺以外の地区

八幡地区は寛平年間(西暦889年 - 898年)に創建された葛飾八幡宮を中心に発展し、中山地区は文応元年(西暦1260年)に創建された中山法華経寺の門前町として発展した。江戸時代には、市川地区、八幡地区に佐倉街道成田街道)の宿場町である市川宿、八幡宿があり、五街道の1つである日光街道の支線として道中奉行の支配下に置かれた。成田街道の別ルートである日本橋から海路を経るルートとして行徳地区にも宿場町があり、江戸川水運の中心地として発展した。

真間の手児奈伝説・江戸名所図会

現在の真間に舒明天皇時代の国造の娘である手児奈という絶世の美少女がいたという伝説があり、奈良時代にはその噂が都にまで届いて万葉集に詠まれるほど有名だった。737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺を開いた。現在は手児奈霊神堂に祀られている。

斎藤月岑江戸名所図会には、葛飾八幡宮および八幡の藪知らずが、歌川広重名所江戸百景には、「真間の紅葉 手古那の社継はし」「鴻の台とね川風景」が描かれている。

年表

  • 1934年(昭和9年)11月3日 - 東葛飾郡市川町八幡町中山町国分村が合併し、市川市が発足した。千葉県内では千葉市銚子市についで3番目の市制施行である。
  • 1949年(昭和24年)11月3日 - 東葛飾郡大柏村を編入。
  • 1955年(昭和30年)3月31日 - 東葛飾郡行徳町を編入。
  • 1956年(昭和31年)10月1日 - 東葛飾郡南行徳町を編入。
  • 1967年(昭和42年) - 下校中の小学生のランドセルが自動車と接触、ひっかけられて轢き逃げされる事件が発生。市議会が次年度の一年生からランドセルを廃止する決議を行う[18]
  • 1980年(昭和55年)3月18日 - 防災行政無線運用開始。
  • 1992年(平成4年) - 日本で最初に「駅前放置自転車対策条例」(平成4年12月条例第27号)を施行した。
  • 2007年(平成19年)4月27日 - 同年2月の議会での「政令指定都市検討促進決議」を受け、市川市、船橋市松戸市鎌ケ谷市が、この圏域の将来的な選択肢の一つとして、合併政令指定都市への移行に関する共同研究を目的とした「東葛飾・葛南地域4市政令指定都市研究会」[19](2008年9月1日現在の4市推計人口1,649,569人)を設立した。同研究会は2009年3月研究報告書を出した。この研究報告により合併のメリットがさほど見いだせないことがわかり、中央においても合併論が下火になったこともあり、合併推進論は全く語られなくなった。
  • 2008年(平成20年)10月26日 - 市で初めての還暦式が行われた。地方自治体が催す式典としては先陣の一つとされる。
  • 2017年(平成29年)4月28日 - 新第2庁舎が竣工。
  • 2020年(令和2年)8月 - 新第1庁舎の4階から7階が先行開庁[20]
  • 2021年(令和3年)1月 - 新第1庁舎の全てのフロアで業務開始。ワンストップサービスがスタート[21]
  • 2021年(令和3年)11月30日 - 老朽化により中央公民館を閉鎖[22]

宿場

佐倉街道成田街道)のうち水戸街道からの分岐である新宿から数えて2番目の宿場が市川宿、3番目が八幡宿である[注 4]。新宿から八幡宿までは五街道の1つである日光街道の支線として道中奉行の支配下に置かれていた。水戸街道は千住宿で日光街道から分岐し、次の新宿で佐倉街道と分岐している。

市川市名の由来

市名選定の由来は、市川市誕生時に遡る。当初合併計画は市川町、八幡町、国分村で進められていたが、市の構成要素に欠ける点があった[23]。そのため市川町は、県当局の勧奨により1934年3月に当時馴染みの薄かった中山町とも連携した。

市川町は江戸川水運の中継地点として繁栄したのち、国府台に陸軍の教導団が置かれる軍都であり、八幡町、中山町に比べて飛び抜けて発展していた[24]。しかし、市川町は「市川市」では合併工作が軌道に乗らないと考え、新市名に旧町村名を使用しないことを原則として議論を進めていた[25]

1934年6月16日の第一回代表委員会における各町村の希望事項は次の通りであり、市名の一項を除き他は全部協定済みとなった。

市川町外三ケ町村市制施行に伴ふ希望事項協議案[26]
市川町 八幡町 中山町 國分村 協議案
一、市の名前 合倂町村の代表となるべき名稱を以てすること 合倂四ヶ町村民中より懸賞募集により定むること

但し舊町村を用ゐざること

舊町村名に關係なき名稱を選定すること 目下適當の考案なき故當局の任意にすること 市の名稱は關係町村名を襲用せず新に定むること

新市名候補

  • 江東市
  • 東葛市
  • 下總市
  • 北總市
  • 總府市
二、市役所の位置 最も便利なる場所を選定すること 市の中央なる八幡町に置くこと 八幡町國道沿ひの場所に選定し假廳舍を市制施行と同時に設くること 合併前に決定せず市會に於て適當と認むる場所に選定の上施設すること 市役所は假廳舍を設くることとし市の中央にして便利なる位置を選定すること
三、負擔 市稅負擔額は三ヶ年間現在の狀態を維持すること 市稅は三ヶ年間現在比率を超へざること 稅負擔は成べく現在を超過せざること、都市計劃上道路網の滿全を期するは勿論なるも池の施設は逐次稅の增大ならざる範圍内に於て實施すること 市稅負擔額は三ヶ年間現在の狀態を維持すること
四、町村吏員 現在の町村吏員は特別の事情なき限り市へ引繼くこと 有給吏員は全部市へ引繼くこと 吏員は特別の事情なき限り市へ引繼くこと 出來得る限り現在吏員を採用し當分解職せさること 有給吏員は全部市に引繼くこと
五、町村の權利義務 合倂町村の權利は一切市へ引繼くこと 合倂前に於ける町村の權利義務は一切市へ引繼くこと 舊町村の權利義務の全部を市へ引繼くこと
六、市政施行の期日 昭和九年十一月三日 同上 同上 同上 同上
七、其の他 市川町里見公園を市立公園とすること 八幡停車場の設置が市制施行前に實現し得ざる場合は市に引繼ぎ昭和九年度中に之が實現に努力すること 法華經寺を中心とし、公園を設置すること

中等程度の學校を設くること

村債を以て道路工事繼續中につき市制施行後も引繼ぎ施行せられたきこと 何れも市代議檢認の議を經て實施すべき事項なれども將來市の發展に資すべき施設のみに付希望事項として市に引繼ぎ充分其の實現に努力すること

協議案では「江東市」、「東葛市」、「下総市」、「北総市」、「総府市」の5候補が挙げられたが、「いづれ劣らぬ田臭味百パーセントで新興都市の不滅の金字としてはさるべくもない」[25]こと、また、「市川町民には市役所を初め市制によつて得るところが皆無とあつては合併の盟主たる市川町として餘りにも酷に過ぎる」[25]ことから、市川町は新市名を「市川市」とすることで他の3町村と再交渉を行った。総武線秋葉原駅には「両国市川千葉方面」という案内があり、市川という地名が既に一般の人々に馴染み深いこと、また、縦と横に「市川市」と書き、どこから読んでも市川市でわかりやすいという語呂の良さから、市川町は「市川市」を提案した[27]。市川町以外はこれに反対し、話し合いが縺れて一時は合併話が一度暗礁に乗りかけた[27]。最終的に市川町中山町間で折衝が行われ、中山町は市役所を中山側(八幡町の藪知らずより東側の国道沿い[27])へ引き寄せることで市川町に譲歩し、市名が市川市に決定した[25]。中山町はさらに京成停留所(鬼越駅)、学校、法華経寺公園等の設置も合併条件に加え、鬼越・中山競馬場間の道路舗装も決定した[28]1934年9月19日の代表委員会では、庁舎や敷地以外の事項を協定し、市制の大枠が定まった[26]

市川の名称は市西端に流れる江戸川が当時東国一の川であったことから一の川が訛ったとする説、江戸川の河岸に川舟が集まり定期的に市が開かれていたことに由来するという説の2つが有力である。市川の地名が初めて登場するのは『義経記』。石橋山の戦いで敗れ安房で再起した源頼朝が、軍勢を率いて下総の松戸庄市河に達するという記述がある。




注釈

  1. ^ a b 例として、東京メトロ東西線で大手町駅から南行徳駅まで営業距離13.3キロメートル、JR総武本線で東京駅から市川駅まで営業距離15.4キロメートル、JR京葉線で東京駅から市川塩浜駅まで営業距離18.2キロメートル、国道14号で日本橋から市川橋まで約14.5キロメートル、高速道路で首都高速都心環状線江戸橋JCTから京葉道路京葉市川ICまで14.6キロメートル。
  2. ^ 神田、日本橋、京橋、本所、深川、柳橋、浅草橋の7地区は東京下町に含まれるが、神田・日本橋、京橋は東京都心にも含まれる。詳細は下町都心を参照。
  3. ^ 「真間の紅葉の名所・弘法寺から、手古那の社と継橋を望む」の意。継橋(つぎはし)は万葉集にも歌われる「真間の継橋」のことで、霊神堂南西方に現存する。なお、この構図は南を望んでいるはずなので、実際には遠方に山(筑波山?)は見えない。
  4. ^ ただし、市川宿を数えずに新宿の次とする説もある
  5. ^ 東京23区内でも世田谷区及び葛飾区は、東京の地下鉄2社局(東京地下鉄と東京都交通局)の路線を有していない。
  6. ^ 都営新宿線の市川市区間は全線地下路線であり、都営地下鉄本八幡駅も地下駅であるのに対し、東京23区及び市川市以外で東京地下鉄の路線を有している船橋市浦安市和光市を走る地下鉄区間は、いずれも地上路線及び地上駅である。

出典

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