行徳塩田
行徳塩田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 02:38 UTC 版)
詳細は「行徳塩田」を参照 行徳では、かつて製塩を行う農家が多く行徳塩田と呼ばれた(ただし、現在の「行徳」とは一致せず、浦安や船橋の塩田も含まれている)。製塩は天候の影響を受けやすく、収入が不安定なため、副業として小規模な塩田を所有する農家が多かったという。 行徳での塩の生産は戦国時代には行われていたが、徳川家康は万が一の際に江戸城が必要とする塩を確保するために行徳塩田を保護した。以後、江戸幕府は塩田の保護とともに江戸と行徳を結ぶ街道や水路の整備を行った。 江戸時代後期には十州塩などの下り塩の江戸流入によって行徳の塩は脅かされたものの、北関東などに販路を広げることで活路を見出し、明治以後には製塩の近代化も進められた。だが、塩の専売化に伴う生産調整や高潮・水害の影響もあって衰退し、最後まで残った塩田も戦後のキティ台風に伴う高潮によって廃止を余儀なくされた。
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