RMI法から反排除法まで
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「ジュヌヴィエーヴ・ド・ゴール=アントニオーズ」の記事における「RMI法から反排除法まで」の解説
社会的被排除者の声を届けるために政府、国際機関に働きかけていたウレザンスキは、1979年に政府諮問機関「経済社会評議会」の議員に任命され、1987年に長年にわたる調査の結果をまとめた「極貧と経済的・社会的不安定(フランス語版)」(通称「ウレザンスキ報告書」)を提出した。貧困と社会的排除を明確に「人権侵害」としたこの報告書でウレザンスキが提言した施策は、ロカール政権による1988年のRMI(社会参入最低所得手当)制度導入として結実した。従来の社会保険とは異なる論理に基づくRMIは、政府によって管理される国庫負担の所得制限付き最低所得保障給付であり、参入最低所得に係る1988年12月1日付法律第88-1088号第1条に、「年齢、心身状況、経済及び雇用状況に関連して、就労が不可能なすべての人々は、社会から生存についての適切な諸措置を享受する権利を有している。生活上の困難な状況にある人々に対する社会的、職業的な参入(包摂)は国民的要請である。この目的において、参入最低所得を、本法で決められた条件のもとで支給する。この参入最低所得は、あらゆる形態の排除、とりわけ教育、雇用、職業基礎教育、健康、住宅の分野における排除を解消することに向けられるとともに、貧困に対する闘いにおけるグローバルな施策の基本的措置の一つである」と定義されている。 1987年10月17日、ウレザンスキの呼びかけにより、世界各国から10万人が飢餓、無知および暴力の犠牲者にオマージュを捧げるためにシャイヨ宮の人権広場に集まった。この結果、1992年に国際連合により「貧困撲滅のための国際デー」が制定されたが、ウレザンスキはこの呼びかけの翌年1988年2月14日に死去した。ジュヌヴィエーヴは同年4月25日に経済社会評議会の委員に任命され、彼の遺志を継いで、「ウレザンスキ報告書」で提唱された「社会的排除対策に係る基本法」(通称「反排除法」)の実現のために奔走した。1992年に経済社会評議会に反排除法案を提出。シラク大統領が確約したにもかかわらずアラン・ジュペ内閣は消極的な姿勢を示していた。いったん国民議会に上程されたものの、1997年に国民議会が解散され、総選挙のために審議は延期された。ジュヌヴィエーヴは、「ゴーリスムを標榜する人間がこのような対応をするとは心外だ」と憤りを隠さなかった。 1997年フランス議会総選挙で社会党が第一党となり、ジョスパン内閣が成立した。反排除法は1998年3月25日、閣議(フランス語版)で可決。再び国民議会に上程されて可決、7月29日に施行された。社会的排除対策に係る1998年7月29日付基本法では、第1条で「社会的排除対策はすべての人間の平等な尊厳の尊重に基礎を置く国民的要請である」と謳い、その骨子として基本的権利の保障(雇用、住宅、医療、市民権行使)、社会的排除の防止(多重債務への対応、住宅確保、基本的生存手段の保障、リテラシー)、社会的諸制度の確立の3項目について定めている。 同年、78歳のジュヌヴィエーヴ・ド・ゴールは「ATD第四世界」の会長を辞任し、弁護士ポール・ブーシェ(フランス語版)に引き継がれたが、以後も「常任ボランティア」として運動を支援した。彼女が強制収容所について回想録を書いたのはこの時のことである。
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