GM救済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「GM救済」の解説
デュポン社はGMにすでに4900万ドルを投資していた。デュポンとラスコブ、モルガン商会はデュラントに破産宣告されることを恐れた。GMの最終的な救済はデュポンがリスクを負うことでモルガンが現金を手当てした。(これは1953年になってアメリカ連邦政府からデュポンとGMとの関係が不当であると提訴された。)デュポンは自らの投資が無に帰す前に、デュラントを追い出すためだけではなく、会社経営の面でも会社を軌道に戻すこととした。 1920年11月11日、デュラントは、ピエール・デュポンとラスコブに、銀行から退任を求められていることを明かした。16日にはデュラントが2000万ドルを株式ブローカーから借金していること、他社名義のGM株130万株、デュラント資産が1400万ドル以上が担保。加えてGM株300万株が銀行と株式ブローカーの担保になっていることをピエール・デュポンとラスコブがききだす。詳細はデュラントにも不明だった。1)新会社設立でデュラントの債務を引き継ぐ、2)2000万ドル手形を発行し担保に充てる。3)GMにさらに700万ドルから1000万ドルを出資し直近の返済に充てる。というアクションを立てた。() モルガンの担当者ドゥワイト・モロー、コクラン、ホイットニーという3名がデュラントに会いピエール・デュポンに明かした話では、デュラントが破産した場合、巨額の貸し倒れ2件、株式ブローカー数社および銀行の破綻が生じ恐慌となる可能性があるとのことだった。デュポンの考えていた支援策の実現可能性は薄いと判断され、モルガンが協力した。デュラントに債務返済要求がきた場合に備え、2000万ドルの銀行融資の手配に加え700万ドルの現金と追加担保を用意できるとした。モルガンはデュポンに現金2000万ドルを手配し、代わりにデュポンはモルガンに対し優先株8%と普通株80%を要求した。 こうして、「2000万ドルの手形発行」、「デュポンが700万ドルを提供、デュポンに新規GM株を発行」、「デュポンがGM株130万株に追加抵当」、「GM株式をデュラント2デュポン1の割合で配分」と対策が打たれた。のちに、アルフレッド・スローンは、総額6000万ドル以上を4日で調達したモルガンにピエール・デュポンが感謝していたことを明かすと同時に、デュラント一人だけではなくデュポン側のラスコブにも責があったと表明している。 デュラントは1920年11月30日に社長を辞任した。いつもの会見と変わらず笑みを浮かべてデュラントは自身の辞任を告げた。翌日、デスクを整理しGMビルディングから去る際にデュラントが言ったことばは「5月1日は引越しの日(Moving Day)だが12月1日に変わったようだね」だった。 デュポンが返済のリスクを負い、デュポンはモルガンがかき集めてくれた資金を元にデュラントの負債を補いGMを救った。デュポンはGMの25%以上の株を保有した。デュポンとモルガン合わせて51%の保有だった。この混乱を一般に説明できる社長としてはピエール・サミュエル・デュポンが適任であるとしてGMの職務としては取締役会会長(Chairman of the Board)となっていたピエール・S・デュポンがGM社長に就いた。1921年がGMの赤字の年となった が、デュポンはスローンの方針に従ってデュラント式のワンマン経営方針を新式の分散型経営に置き換えはじめた。この後ピエールは取締役会長となりアルフレッド・プリチャード・スローン・ジュニアが社長となった。会社は事業部門として再編され、それぞれの事業部門のボスは事実上自律性を持たされた。これにより事業部門同士が互いに競い合うことを期待された。望むのであれば、独立した会社のように購入によって供給をおこなうようになった。 GMが企業として伸びてくるに従いデュポンがGMの手綱を緩めていたため1950年代となるとデュポンの役割は大枠の方針を設定するにとどまり、それもほとんどは財務上のものとなっていた。1957年のGMには役員33人中6人だけがデュポン関係者だった。それでも、デュポンによるGM支配は独占禁止法(反トラスト法)違反でデュポン系役員が退陣した1959年まで続いた。 一方、デュラント退任以前にデュラントが保有していたゼネラル・モーターズ株は「General Motors Securities Co.」を新たに設けて管理された。デュラントは株式をデュポン社に渡し、対価として23万株、当時の市場価値およそ300万ドル分を受領した。デュラントはのちにこれをすぐに売却したが、保有していたならばかなりの対価を受けたはずのものだった。デュポンは「General Motors Securities Co.」を運用してかつてのデュラント持株が生み出す配当はGM社員へ配分される仕組みとした。1920年11月23日のニューヨークタイムス でデュポン・セキュリティーズ・コーポレーションの発表としてこのことを報じた。 ピエール・S・デュポンがデュラントから300万株を超える数のGM株を譲渡された。 JPモルガン商会が取引を仲介した銀行である。デュポンとモルガンを合わせたGM株の51%を上回り、GMを完全に支配する権利を保有した。 取引総額は未確定だが、GM市場終値での300万株は4,725万ドルで過去最高と予測されている 全額がデュラントへの現金払いではなく、一部はデュポン・セキュリティーズ・コーポレーション株となる。 GMコーポレーションの絶対支配のデュポンおよびその関連およびJPモルガン商会への移転は、USスチールが鉄鋼業界で果たした役割と同様、GMの確立への更なる飛躍である。会社を支配した彼らは、過去に幾度も、USスチールが鉄鋼市場、鉄市場に及ぼしていると同様の力を、自動車事業を安定させる十分な力をもつであろう偉大な会社を狙っていた。デュラントの持分はこの目的のために得られたものである。 デュラントは「私はゼネラルモーターズコーポレーション株の大半をウィルミントンのデュポン・セキュリティーズ・コーポレーションに売却した。デュポン・セキュリティーズ・コーポレーションはピエール・S・デュポンと彼のグループが創設したもので、わたしもその株式の大きな部分を保持することとなる。」とコメントした。 デュラントの株の譲渡はデュラントがGMに及ぼす力を制限するものではない。デュラントはいまだGM株の多くを保持していると言われており150万株程との憶測もある。昨日の発表から得られた情報では、しばらくは社長を続けるのではとの見方と、取締役会会長に勇退するとの見方がある。 デュポンはこの取引で得た300万以上の株を取得済みに加えればおよそ750万株を保有し、およそ2000万株の発行済みGM普通株式のおよそ37.5%を保有した。モルガンホールディングスは言明していないが、昨日の発表では、デュポン=モルガン・グループで51%以上を取得したと見られる。 GMは年10億ドル会社であるとの評価を受けていた。しかし自動車需要の落ち込みからこの数週間でかなり縮小されている。数日前にはキャディラック工場のみとなっている。数週間前から落ち込みは改善し、シボレー社の工場では完全操業停止状態から減産状況ながら復帰している。シボレーほど影響を受けなかった他工場でも改善が見られる。
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