GM社長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:03 UTC 版)
「ハーロー・カーティス」の記事における「GM社長」の解説
カーティスは、GMの伝統である部門長の実質的な独立性を保っていた。しかし、1953年、GMのアリソン部門(航空機用モーター)が低迷していたため、カーティスは個人的に同部門の運営に携わり、プラット・アンド・ホイットニー社との競争力を高めるために、新しいエンジンの大規模な投資のための資金を調達した。1955年には、イースタン航空のエディー・リッケンバッカー(英語版)がこの新しいエンジンを大量に注文した。社長に就任してからの2年間、カーティスは2度の外国出張を経験し、そのたびに数百万ドルもの決済をその場で決断を下した。 カーティスがGMに就任した当初は、景気後退が懸念されていた。1954年2月、景気の低迷が続く中で、カーティスは来るべき好景気を見越して、10億ドル(現在の貨幣価値で約120億ドル)を投じて工場や設備を拡張することを発表した。これにより、他の企業の設備投資が活発化し、経済の回復を後押しした。フォードもまた10億ドルの投資を発表し、それに続いてクライスラーも5億ドルの計画を発表した。一方カーティスは、追加の2億ドルの計画を発表した。カーティスは、景気が回復することを見越して、それに備えていたのである。1955年、GMは500万台の自動車を販売し、1年で10億ドルを稼いだ初めての企業となった。 1955年、カーティスは『タイム』誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。その理由は、「必要とされる仕事の中で、アメリカのビジネス界のリーダーとしての責任を引き受けた」というものだった。カーティスは「ゼネラルモーターズは常にリードしなければならない」と言っていた。社長在任中、ミシガン州フリントの自宅に帰るのは週末だけで、平日はGM本社に残っていたという。 1956年には、さらに10億ドルを設備投資に充てる計画を発表したが、これは一つの企業が1年間に投資した金額としては最大のものだった。カーティス個人の収入は、ピーク時には年間80万ドル(現在の貨幣価値で900万ドル以上)に達していた。 1971年には自動車殿堂の殿堂入りを果たした。
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