GM株取得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「GM株取得」の解説
デュラントはデュポンと組んで1915年初頭からGM株を市場で買い集めていた。デュポンにとっては、第一次世界大戦の火薬販売で儲けた金を再投資する場としてGM株が最適な場だった。このことにストロウら銀行側GM経営陣が気づいたときにはすでに夏になっていた。 当時のデュポンの主(あるじ)は6代目社長ピエール・S・デュポン(1870-1954)だった。ピエールにGM株を推薦したのは長らくピエールの個人秘書でピエールの信頼が厚く、当時はデュポンの財務担当だったジョン・S・ラスコブだった。ラスコブはデュラントの考えに共感しデュポン社がGMの43%もの株主になる際の指南役となり、ピエールがデュラントを援助するのを薦めた。デュラントはニューヨークでラスコブと知り合っていた。ラスコブはチャタム・アンド・フェニックス銀行(Chatham and Phoenix Bank)のLGカウフマンと共にデュラントの話にのり公開市場でGM株を購入した()。 ラスコブは1918年にはデュポン・GMの両社で財務担当バイスプレジデントに就き、GM自動車ローン部門創設にも寄与した。デュラントの会社買収方針を支持し1920年の財務悪化を招いた責もデュラント同様にあると、後には見られているが、当時はデュポン側としてデュラントGM社長となったピエールと一心同体だった。ラスコブはのちにエンパイアステートビル建設を財務的に支援した人物としても有名。 一年あまりでシボレー社は9400万ドルの会社となった。デュラントはGM株を買い捲る一方、GM株1株をシボレー株5株を交換するという破格の取引をGM株主に提示した。1916年1月26日までの期限で交換するとし、これに多数が応じた。これによってそれまで82ドルだったGM株は558ドルまで上昇した。さらにデュラントはシボレー490の価格を490ドルから440ドルに下げた。この結果、GM普通株式の40%がデュラントのものとなった。こうしてデュラントはGMを再び支配することができるようになった。デュラントはシボレーをGM傘下とした。一方デュポン社がGMの大株主となった。数年後の1920年にデュラントのやり方で再びGMが破綻したとき、今度はデュポンがデュラントを追い出すことになる。
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