再びGMへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「再びGMへ」の解説
デュラントは1915年にはGMに返り咲いた。デュポンの支援を得てすぐにGM株式の40%を買い戻した。「議決権信託」の5年間の期限が1915年10月1日に終了した。それに先立つ9月16日にGM創立7周年の株主総会が開かれた。ここにデュラントが乗り込み自身の復権を宣言した。デュラントは自身の保有する株式に、さらに多くの仮証券を取得していた。一株につき50ドルの配当を受け、GM経営の実権を取り戻した。 ポケット(あるいはスーツケース)を株式証券で膨らませてニューヨークのベルモントホテルで行われたGMの取締役会に乗り込んできた。ゆっくりとそして堂々とテーブルの先頭に向かい、デュラントは有無を言わせず「諸君、私がこの会社を統率する(Gentlemen, I control.)」と宣言した。この伝説は「すべて正確な事実ではないにしてもデュラントがGMに返り咲いた状況がよくあらわされたエピソード」とされている。ウォルター・P・クライスラーはのちに「エルバ島から復活したナポレオンのようだった」とこのときのデュラントを形容している。 11月16日には役員改選のための株主総会が開催された。大株主となったデュラントはピエール・デュポンを取締役会の会長に、カフマン(Louis G. Kaufman)とデュポンのラスコブやJ・エイモリー・ハスケルらを取締役に任命した。カフマンは財務委員会議長になった。企業家が銀行家に騙されて乗っ取られる例は多いが逆の例は珍しい。 1916年にはデュラントはシボレー社がゼネラル・モーターズ・カンパニーの株式の54.5%を取得したと発表。この時点ではGM社長はチャールズ・W・ナッシュが引き続き務めていた。ナッシュは堅実な経営で1915年には1910年の10倍の利益をあげていた。デュラントはナッシュにGMに残るよう引き止めた。育ての親としてのデュラントに恩義は感じていたが、すでに第一級の経営者となったナッシュはGMを去る道を選び、ストロウの支援を得てトマス・B・ジェフリー社を買収、ナッシュ・モーターズに改組し自身の道を歩んだ。 6月1日にデュラントは自らGMの社長に就いた。1908年のGM設立以来、大株主で1910年まで経営権も握っていたが、GMの社長となったのはこれが初めてだった。デュラントはビュイックの総支配人だったウォルター・クライスラーをGMオペレーション担当副社長兼ビュイック社長とした。しかし、クライスラーもほどなくデュラントから離れていった。デュラント自身も1920年11月30日でGMを去ることになった。
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