CTS建設問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 04:20 UTC 版)
ガルフ社の宮城島進出が周知されると、島内反対派は1967年(昭和42年)3月16日に「宮城島を守る会」を、賛成派は「工場誘致促進委員会」を結成した。5月8日の与那城村会議ではガルフ社誘致が議題となり、全会一致で誘致の早期実現に関する要請決議を行い、7月1日に「石油事業誘致特別委員会」を設置した。しかし、7月19日に宮城島内で賛成・反対派よる傷害事件が発生するなど、両者は益々対立した。そもそも島内の賛成派は反対派よりも多数であったが、反対派が所有する土地が建設予定地の半分以上を占め、さらに賛成・反対派の所有地が点在し、用地取得が困難であった。その上再三に亘る反対派への説得にも誘致の支持は得られず、結局宮城島でのCTS計画は頓挫した。その後、本島と結ぶ海中道路建設を条件に平安座島の島民は、島の4分の3の土地をガルフ社に貸与した。また、島民は建設工事の請負や開業後の雇用促進による経済効果に期待を寄せていた。 しかし、CTS建造後の雇用効果は予想を下回り、また島内の耕作地が激減し、農業振興地域の指定は解除された。1965年に指定された「与勝海上政府立公園」はCTS計画により取り消された。さらに海中道路の建設により島周辺の海域に赤土流出・潮流変化に伴い漁業に深刻な打撃を受けた。1973年のガルフ社による原油流出事故を切っ掛けに公害問題が深刻化し、CTS反対運動が激化する。村議会や開発事務所へ抗議が殺到、反対派団体「金武湾を守る会」(以下「守る会」)は当時の屋良朝苗知事へ押しかけ、CTS建設の中止を訴えた。これら反対派の中には革マル派の一員などによる扇動者も含まれていたという。1974年(昭和49年)1月19日、CTS建設反対の世論と全国で展開された公害防止運動の高まりを理由に挙げ、知事はCTS反対を表明、これを受け「沖縄三菱」社長は同月23日に知事と会見し、CTS反対決定の撤回を求めた。また同月25日、当時の中曽根康弘通商産業大臣は国会演説で、金武湾におけるCTS建設を積極的に行うべきと発言、さらに翌月2月8日に自由民主党沖縄県支部は、屋良知事の退陣要求デモを県庁前で行った。1974年9月5日に「守る会」に所属する漁民6人は沖縄県を相手取り、埋立て免許の無効確認を要求する裁判を起こした。翌年の1975年10月4日の判決で、既に完工した埋立て地を元の状態へ戻すのは不可能とし、県は全面的に勝訴した。次に「守る会」は1977年(昭和52年)4月9日に、環境権と人格権の侵害を理由に原告1,250人によるCTS建設の差し止めを求めた。しかし原告側にはCTSが立地する平安座島の住民は存在しなかった。1979年(昭和54年)3月29日の判決で原告は敗訴し、CTS反対運動は次第に衰退した。
※この「CTS建設問題」の解説は、「平安座島」の解説の一部です。
「CTS建設問題」を含む「平安座島」の記事については、「平安座島」の概要を参照ください。
- CTS建設問題のページへのリンク