AV-8A/C
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「ホーカー・シドレー ハリアー」の記事における「AV-8A/C」の解説
編隊を組み飛行するAV-8A ヘリコプター揚陸艦から発艦するAV-8C アメリカ海兵隊は、ケストレルの3ヶ国共同評価試験には参加していなかったものの、その後アメリカに持ち帰った機体を用いた評価試験には参加し、同機に注目していた。当時、海兵隊はベトナム戦争を戦っていたが、南ベトナム内で海兵隊が戦った戦闘の大部分が30分以内に勝敗が決しており、コールされてから10分以内に戦場上空に到達できるCAS機は、海兵隊にとって理想的と考えられていた。ハリアーは、ヘリコプターの着陸ゾーン程度の場所があれば作戦可能で、150メートル程度の滑走路でも作ればペイロードを相当に増やせるうえに、ヘリコプター揚陸艦からの運用も可能であった。 まず1968年7月の英航空機製造協会(SBAC)エアショーをアポ無し訪問した2人の海兵隊テストパイロットが試乗の約束を取り付けて、2週間経たないうちに操縦を開始し、数ヶ月後には能力に関するレポートを携えて帰国した。1969年初頭には正式なテストチームがイギリスを訪問して評価試験を実施、その報告を受けた国防総省は海兵隊のハリアー採用を承認し、9月30日には予算が議会を通過して、12月23日にはAV-8Aとして最初のバッチ12機が発注された。初号機は1970年11月に初飛行を行い、翌年4月に最初の飛行隊VMA-513を編成した。1972年1月から1974年6月にかけて、イオー・ジマ級強襲揚陸艦の「グアム」艦上に展開し、制海艦コンセプトのための評価試験を行った。そして1974年9月より、同艦にて作戦展開が開始された。 AV-8Aは社内呼称としてはハリアーMk.50とされており、基本的にはハリアーGR.1Aと同様の仕様である。エンジンは当初はペガサスMk.102(F402-RR-400)であったが、第2バッチ以降はMk.103(F402-RR-401/402)に換装された。また60号機以降は、航法システムを短距離作戦を重視した簡易型に変更した。射出座席も、当初はマーチンベイカー・タイプ9 Mk.1であったが、90号機以降は米国製のステンセルSIIIS-3となった。搭載兵装もアメリカ軍の制式装備に変更され、サイドワインダーの運用にも対応したが、30mmアデン砲は海兵隊のお眼鏡に適ったため、残された。ただし当初、30mm砲弾を艦上に搭載することは許されず、陸上でしか補給できなかった。 海兵隊は、6回にわけて、102機のAV-8Aと、8機の複座型TAV-8Aを導入した。このTAV-8Aは社内呼称としてはハリアーT.Mk.54とされ、T.Mk.4に準じる機体にAV-8A後期型と同様のアビオニクスを組み合わせたものであった。この時マクドネル・ダグラス社はハリアーのライセンス生産権を獲得し国内製造を計画したが、採用数が110機と少なかったため実現しなかった。しかし、この契約が、後にマクドネル・ダグラス社の主導によって、ハリアーを全面的に改設計した発展型であるハリアー IIの開発へと繋がる素地になる。 このハリアーIIに繋がるAV-8A後継機の開発計画は1970年代には本格化するが、その戦力化までの中継ぎ措置として、1978年よりAV-8Aの近代化改修が開始された。これがAV-8Cで、飛行時間の延長やAN/ALR-45F RWRの搭載、AN/ALE-39チャフ/フレア・ディスペンサーの搭載、機上酸素発生装置(OBOGS)、秘話装置付き通信装備の追加などが行われた。量産改修は60機が計画されたが、実際に改修されたのは47機で、1979年から1984年にかけて改修された。その後、ハリアーIIの配備に伴って1986年よりAV-8A/Cともに退役が開始され、AV-8Cは1987年2月、TAV-8Aも同年11月に運用を終了した。
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