2011FIFA女子ワールドカップ優勝まで
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「澤穂希」の記事における「2011FIFA女子ワールドカップ優勝まで」の解説
1993年、15歳で日本女子代表に招集されて初出場を果たしデビュー戦で4得点を挙げた。その年のリーグベストイレブンに初めて選ばれその後も度々選出され、リーグを代表する選手となった。 1990年代末は、L・リーグに所属する企業が次々と女子サッカー部の廃部を決めた。澤はサッカーができなくなることを危ぶみ、1999年に大学を中退、米国に渡ることを決意した。1999年にコロラド・デンバー・ダイアモンズに所属。2000年にアトランタ・ビートに移籍した。このとき、米国選手との速さと体格・力の差に驚くが、同時に自分自身の技術で、生きていく道が見えたと述べている。米国でも高い技術で実力を発揮し、「クイック・サワ」との異名を取った。 また、米国滞在中、結婚を考えたが、2003年9月アメリカ女子プロリーグ休止にともない、帰国する道を決断した。 2004年にL・リーグに「ノンアマ (プロ契約) 選手」として復帰。同年4月に国立競技場行われたアテネ五輪アジア最終予選の北朝鮮戦では右ひざ半月板損傷をおして出場し、3-0で勝って日本に2大会ぶりの五輪切符をもたらした。同年、アジア年間最優秀選手賞を受賞。その後も日本国外のチームからのオファーを受けたが、なでしこジャパンの選手としてベレーザでのプレーを続け、チームの優勝にも貢献した。2006年、2008年にはなでしこリーグMVPにも選ばれた。なお、2004年7月に、サッカー日本女子代表の愛称が「なでしこジャパン」に決定し、記者会見を行った際、発表用に「なでしこジャパン」と毛筆で記したのは澤だった。 主にトップ下で司令塔としての役割を果たしていたが、2007年に女子代表の監督に佐々木則夫が就任して以降は、ボール奪取能力の高さや展開力、予測に長けている事を評価されセンターハーフにコンバートされ、女子代表の攻守の要となった。 2008年オフ、2009年開幕予定であったWPSからドラフト指名を受け、2009年1月にワシントン・フリーダムへ移籍した。ワシントンでは20試合に出場し、3得点を挙げた。同年8月、古巣の日テレ・ベレーザに一時的に復帰することになった。 2011年、経営難の日テレからプロ契約の打ち切りを宣告され、1月5日大野忍、近賀ゆかり、南山千明とともにINAC神戸レオネッサへ移籍した。 移籍後には「サッカーに専念出来るINACに来てから凄くコンディションがいい」と語るなど、満を持して迎えた2011 FIFA女子ワールドカップではキャプテンとして出場。グループリーグ・メキシコ戦でのハットトリック(1得点目は決勝点)、準々決勝ドイツ戦での決勝点のアシスト、準決勝スウェーデン戦での決勝点、決勝アメリカ戦での延長後半12分の同点ゴールの計5ゴール1アシストを記録し、日本サッカー史上初のW杯優勝に大きく貢献、自身も日本人初となるW杯での得点王とMVPの二冠を達成した。 世界ランク1位のアメリカを決勝で下した試合によって、日本だけでなく,世界中のメディアが、なでしこジャパンを賞賛した。英国のザ・タイムズ紙は、「鉄の意志のチーム」と表現した。ニューヨークタイムズ紙は「復興への希望の上に築かれた勝利で、大震災で打撃を受けた国を盛り上げた」と賞賛している。また、アメリカチームを率いたスンドハーゲ監督は、「私たちは今日、観客にいい試合を見せられた。PKにまで及んだこの決勝戦を、ずっと覚えていただけるのではないか」とコメントした。 なお、メキシコ戦でのハットトリックは自身の国際Aマッチでの記録としては2001年12月4日のシンガポール戦以来およそ10年ぶりのハットトリックであった。
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