1978年-1997年:デュラン・デュランとパワー・ステーション
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「ジョン・テイラー (ベーシスト)」の記事における「1978年-1997年:デュラン・デュランとパワー・ステーション」の解説
1978年、テイラーと学校の友人ニック・ローズはバーミンガム工芸学校(現バーミンガムシティ大学)に在学している間、スティーブン・ダフィーとともにデュラン・デュランを結成した。間もなくしてテイラーは眼鏡を外してコンタクトレンズを装着し、みにくいアヒルの子のような変身を遂げ、ニューロマンティックスタイルとして知られるようになったフリルとサッシュのファッションを取り入れ、アイライナーと口紅をつけることを覚えた。「ナイジェル」という名前の使用をやめ、プロとしての経歴の間ジョン・テイラーの名で知られている。 デュラン・デュランが結成されたときはテイラーはギターを演奏していたが、シックのファンキーなリズムに出会ったのちに、ベースギターへと切り替え、そしてデュラン・デュランの新入ドラマーのロジャー・テイラーとのリズムセクションで楽しんで演奏することを学んだ。彼はシックのバーナード・エドワーズとザ・クラッシュのポール・シムノンを自分に最も影響を与えた人物として挙げているが、それに加えてポール・マッカートニーやジェームス・ジェマーソン、ロキシー・ミュージックの演奏者であるグレアム・シンプソンとジョン・ポーターも参考にしていた。デュラン・デュランは1981年に初のアルバムをリリースし、1980年代はじめには世界的な成功を収めた。 デュラン・デュランの初期の音楽は「グッドタイムズ」 のようなファンクやディスコの音楽をモデルとしたテイラーのメロディックなベースラインを顕著に出す傾向がある。俗説に反して、テイラーはバンド・エイドのチャリティーシングルである「Do They Know It's Christmas?」でベースを演奏せず、そのベースラインはオスカーシンセサイザーで演奏された。 1980年代初めデュラン・デュランが有名になるにつれて、テイラー個人も有名になっていった。彼の写真はティーン向けの雑誌では定番となり、彼は『ピープル』マガジンの最もセクシーな男性の年間リストに掲載されるなど、多くの人気票を勝ち取った。彼はロンドンやパリの家で贅沢なライフスタイルを送り、あまり車を運転する機会が無いにも関わらず、彼がいつも夢見ていたボンドスタイルのアストンマーティンを含む何台かの車を所有していた。彼はボンドガールのジャニーン・アンドルーズや、1980年代の顔であったレニー・シモンセンなどのファッションモデルたちとデートした。 1985年、ジェームズ・ボンド映画『007 美しき獲物たち』の主題歌でトップチャートに上ることとなるシングルの収録を終えた後、デュラン・デュランは2つのサイド・プロジェクトに分裂した。ジョン・テイラーとアンディ・テイラーは、シックのドラマーだったトニー・トンプソンや、1983年にアストン・ヴィラサッカーグラウンドで開催されたデュラン・デュランのチャリティーコンサートで出会ったことのあった歌手ロバート・パーマーと一緒にバンド、パワー・ステーションを立ち上げた。プロデューサーのバーナード・エドワーズの元で、アルバムをリリースしたパワー・ステーションは「サム・ライク・イット・ホット」や、T・レックスのカバー曲である「ゲット・イット・オン」などといったヒットシングルを生み出した。 その年、テイラーはまた最初のソロ活動を開始し、映画『ナインハーフ』サウンドトラックからのシングルである「アイ・ドゥ・ホワット・アイ・ドゥ (I Do What I Do)」のレコーディングを行った。彼はまた共同開発者ジョナサン・エリアスと共に映画の楽曲のスコアを書いた。 アンディ・テイラーとロジャー・テイラーがデュラン・デュランを脱退したが、3人の残ったメンバーは1986年のアルバム『ノトーリアス』を発表し、新しいギタリストのウォーレン・ククルロと共に1990年代までツアーを行った。副業としてテイラーはアリソン・アンダースの映画『Mi Vida Loca』で使われた何曲かのサウンドトラックを含むかなりの量の未発表のソロ曲のレコーディングを行った。 1991年12月24日、テイラーは19歳のアマンダ・デ・カドネと結婚した。彼女はすでに彼の子供アトランタ(1992年3月31日に誕生)を妊娠していた。彼は英国のタブロイド紙から逃がれ、妻の女優としてのキャリアを守るために、イングランドからロサンジェルスのカリフォルニアに移住した。ちょうどデュラン・デュランが『ザ・ウェディング・アルバム』の名で知られている1993年代のアルバム『デュラン・デュラン』の成功によって人気が上昇した時であり、テイラーの結婚はうまくいかなかった。1994年後半、テイラーは薬物乱用の治療を求めて以来、しらふを保っていた。1995年3月、彼とデ・カドネは離婚した。 デュラン・デュランの成功は1995年に広く批判されたカバー・アルバム『サンキュー』で急速に衰えた。アルバムのツアーに続いて、デュラン・デュランは1995年夏の大半をロンドンで過ごし、アルバム『メダザランド』の製作に取り組んだ。同時に、テイラーはもう一方のニューロティック・アウトサイダーズのプロジェクトに時間をささげ、1995年末から1996年の初めにかけて、レコーディングとツアーを行った。
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