1970–1974とは? わかりやすく解説

1970–1974

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:11 UTC 版)

ローリング・ストーンズ」の記事における「1970–1974」の解説

1970年バンドアラン・クレインおよびデッカ・レコードとの契約終了したクレインとの契約紛争の間に、バンドは自らのレーベル、「ローリング・ストーンズ・レコード」 (Promotone BV) を設立した。同レーベルからの第1弾作品として『スティッキー・フィンガーズ』(イギリス1位;アメリカ1位)を1971年3月リリースしたアルバムジャケットアンディ・ウォーホルデザインした同作には「ブラウン・シュガー」「ワイルド・ホース」が収められたが、これらは1969年のアメリカン・ツアー中にアラバマ州マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ録音されたものであったアルバムブルース影響強く受けた前2作の路線引き継いでいた。その特徴として「ルーズで、今にも崩れそうな雰囲気」を持ったアルバムであり、また、ミック・テイラーが完全参加した初のアルバムでもあった。ストーンズデッカでの作品権利クレインのアブコレーベルが所有している。 『スティッキー・フィンガーズ』のリリース後バンド金融面での勧告を受ける。高率課税辟易したミックキースビルの3人はフランス南部移住バンド移住直前イギリスで「フェアウェルツアー行ったキースヴィルフランシュ=シュル=メールに家を借りメンバー友人達生活したバンドモービル・ユニット使い地下室レコーディング行った。そのマテリアル最終的にロサンゼルスサンセット・スタジオ編集が行われ、2枚組アルバムCDでは1枚)『メイン・ストリートのならず者』(イギリス1位;アメリカ1位)として1972年5月リリースした評論家ロバート・クリストゴーはこのアルバムA+評価し、レスター・バングズはこのアルバム低評価与えたが、数ヶ月の内にその評価一転させ、『ならず者』はストーンズ最高傑作一つであると認めている。アルバム発表後3年ぶりの全米ツアー行ったその頃撮影された映画コックサッカー・ブルース』(未公開)と『レディース・アンド・ジェントルメン英語版)』(1974年)はツアードキュメンタリーであり、テリー・サザーン出演している。 1972年11月バンドジャマイカキングストンセッション始める。『山羊の頭のスープGoats Head Soup)』(イギリス1位;アメリカ1位)は1973年リリースされた。シングル悲しみのアンジーAngie)」は世界的なヒットとなり商業的に成功したが、生ぬるく容認され最初アルバムであった本作セッションでは数多くアウトテイク生じ例えば「友を待つWaiting on a Friend)」の初期バージョン録音されていた。同曲は8年後に『刺青の男』で発表された。 レコーディングドラッグに関する別の法廷闘争中断された。それはフランス滞在当時までさかのぼりキース逮捕令状発行され他のメンバー証言のためフランスに戻らなければならなかった。これと平行してミックドラッグに関する裁判1967年および70年が行われ、73年初めに予定されていたパシフィック・ツアーの計画複雑な物とした。日本公演前年発表されていたが、メンバー麻薬所持による逮捕歴や、ビートルズ来日時のような混乱避けるためという理由により、入国許可下りず、チケット完売していたにも関わらず公演直前になって中止に。その後1990年初来日までストーンズライヴ夢のまた夢といわれていた。キース6月イギリス逮捕された。その後3年ぶりのヨーロッパ・ツアーフランス迂回して9月から10月にかけて行われたバンドミュンヘンのミュージックランド・スタジオで次回作のレコーディングを行う。アルバムイッツ・オンリー・ロックンロール』(イギリス2位アメリカ1位)は1974年リリースされたが、ジミー・ミラー麻薬問題もありプロデューサー降りていた。代わってミックキースが「グリマー・ツインズ」としてプロデュース行ったアルバムのタイトルナンバー「イッツ・オンリー・ロックンロール」は名義こそジャガー/リチャーズになっているものの、実際にロン・ウッド作曲しミックが詞をつけるという意外な形で完成された。これは、同曲が元々ロン・ウッドソロアルバムレコーディングのために曲を作っていたため。“たかがロックンロール、でも俺はそれが好きなんだ”というストーンズ意気地ともいえる歌詞は、ロン・ウッド自宅にきて酒を飲み交わしていた際にミックフェイセズメンバーであるケニー・ジョーンズとの口論から生まれたという。これが原因なのか定かではないが、同曲のヴォーカルミックケニー二人とっている。これは結果的に、後のメンバー昇格する要因一つだったと思われるジャガー/リチャーズ/ウッドという共同名義作曲をしているものがある)。 1974年終わり頃になると、テイラーメンバーとして我慢がならなくなっていた。バンド状況複雑なになっており、互いに異なった国に住み法的な問題正常なツアー制限するようになっていた。加えてキース薬物使用進み、そしてテイラー自身創造的な貢献認められていない感じていた。年末ミュンヘンでのセッションの間にテイラーストーンズ脱退した1980年に彼は「僕は少しうんざりするようになっていた。僕は自分ギタリストとして範囲広げて、他に何かしたかった。...僕は当時本当は歌を書いた作ったりしていなかった。僕はちょう書き始めていたんだ。そして、それは僕の決定影響した。...頂きから頂きへとずっと渡っていける何人かの人がいる。彼らは他の誰か成功沿って乗ることができる。そして、それが十分でない何人かの人々もいる。僕は本当にそれが十分でなかった。」と語っている。

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「1970–1974」を含む「ローリング・ストーンズ」の記事については、「ローリング・ストーンズ」の概要を参照ください。

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