1910年代前半
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1910年(明治43年)の3月16日から6月13日にかけて、名古屋市鶴舞公園にて愛知県主催の第10回関西府県連合共進会が開催された。90日間で263万人の入場者を集めたこの共進会の開催に際し、名古屋電灯は会場内外の電灯設備の設置を請け負い、長良川発電所の完成を開会に間に合わせて会場内外に電灯2万5834灯・イルミネーション3万3569個を点灯させた。加えて会場内の「機械館」に長良川発電所の立体模型や電灯・小型モーター・電熱器・扇風機などを出展し、電気に関する知識の普及と需要喚起に努めた。閉会後は需要開拓を図るべく、同年8月から電球をすべて会社負担に切り替え、新たに門灯の割引制度を設けた。 長良川発電所と八百津発電所という2つの大規模水力発電所の完成により、名古屋電灯では創業以来初めて販売電力に余剰が生じた。このことから1910年代以降は余剰電力の消化を目的に大口の電力供給に注力し、工場、電気鉄道、他の電気供給事業者など新規需要を開拓、電気の供給地域を名古屋市とその周辺のみならず愛知県外にも拡大していく。大口電力需要家は長良川発電所建設以前には瀬戸電気鉄道(1907年3月供給契約締結)ほか数社と少数であったが、1911年(明治44年)に愛知織物(2月)・帝国撚糸(9月)・名古屋電気鉄道(12月)へと供給を開始。その後も愛知電気鉄道・尾張電気軌道・一宮電気・尾北電気・稲沢電気・岐阜電気・知多瓦斯(後の知多電気)・日英水電・日本車輌製造・三重紡績(後の東洋紡績)半田工場といった大口需要家への供給を開始した。小口供給についても電力料金が引き下げられ、1馬力の場合従来月額12円だったものが1911年6月より10円75銭となった。電力供給実績は1913年(大正2年)上期に1万馬力を越え、1914年(大正3年)下期末時点では1万3789馬力に達した。 一方電灯供給については、1911年(明治44年)下期に10万灯を越えた。しかしその裏側では名古屋瓦斯(1907年開業)が供給するガス灯の普及が著しく、同じ時点では4万灯近くに達していた。以後、1914年に倍増となる8万灯を超えるまでガス灯は勢力拡大を続けていく。これに対し、名古屋電灯ではガス灯との対抗上1912年1月に電灯料金を引き下げ(10燭灯は月額85銭から80銭へ)、2月には電灯勧誘規定を制定して外交員を置き電灯販売に努めた。販路拡張の結果、1912年には1年間で4万灯の増灯を達成している。ただし福澤桃介が経営を握って支配人角田正喬による業務改革が始まると、電球を撤去済みでも取付灯数に含めていたという計算方法が改められて1913年2月末に1万6138灯が電灯数から差し引かれた。その後も販路拡張策は継続され、同年9月25日からは1か月間にわたり創立25周年記念のキャンペーンが行われた。増設希望者に福引券を配る、支配人以下全職員に責任灯数を割り当てて勧誘に当たらせるなどの活動の結果、1か月で1万2941灯の増灯をみた。 大口電力供給のみならず一般供給においても供給区域の拡大がみられた。名古屋市の西側では、1912年11月より愛知郡下之一色村(現・名古屋市中川区)および海部郡蟹江町への送電を開始。北部では翌1913年10月より西春日井郡小牧町(現・小牧市)での供給も始めた。こうして電灯・電力ともに郡部での利用も増加していくが、供給成績の伸びは名古屋市内の方が大きい。1914年末時点における電灯数は計18万8950灯であった。 また電灯供給については、1913年上期から従来の炭素線電球に比べ消費電力が3分の1前後と小さいタングステン電球の採用が始まった。高燭光の電球から順次切り替えが進められ、1916年下期末の段階では炭素線電球のまま残るのは5燭以下の電球の半数となった。
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