<レオ・やまもと コンソート>
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「丹羽勝海」の記事における「<レオ・やまもと コンソート>」の解説
レオ・やまもと(丹羽勝海)音楽歴1938年 横浜に生まれる 1961年 東京芸術大学音楽学部卒業 1961年~1966年 UCLA及びジュリアード音楽院に奨学金を得て留学 1964年 アスペン音楽祭サマー・スクールにてカウンターテナーの権威であるアルフレッド・デラー先生にカウンターテナー唱法を学ぶ 1968年 三宅春恵先生とのジョイントリサイタル 師三宅春恵先生主催の「ムーゼン・クランツ」及び「東京室内重唱団」の一員として多くのルネッサンスからバロックの声楽曲をカウンターテナーとして演奏する 1969年 東京芸術大学音楽学部大学院をイギリスの中世及びバロックのカウンター・テナーの声楽曲の演奏及び論文「カウンターテナー概論」により修了 1978年 レオ・やまもとコンソートを結成し第一回演奏会を行う 1981年 ニューヨーク、ロサンジェルス、サンフランシスコ等で「現代日本声楽曲によるリサイタル」を行い大好評を得る レオ・やまもと コンソート<第5回>に寄せて 1982.11.11 両刀使いの声楽家 柴田南雄 <レオ・やまもと>というカウンター・テナーの歌手が出現した、と聞いたのは十数年前のことだった。しばらくして、それがテナーの丹羽勝海さんと知ってびっくりしたものだ。 カウンターテナーはイギリスで発達した声楽の技術で、ルネサンスの多声楽のアルトを担当するための、ファルセット唱法による男性アルトがその起こりと言われる。近年アルフレッドデラーがその技術を再興させただけでなく、性格的なソリストとして令名をはせた。ブリテンは彼のために「真夏の夜の夢」のオベロンのパートを書いている。丹羽さんはアスペンの夏期講習でデラーに接してカウンターテナーの魅力のとりこになった人である。 丹羽さんは、豪放華麗なテナーと、抑制の利いた、非現実の幻想性を表現するカウンターテナーとの両面を具えた声楽家である。わたくしは彼の3オクターヴを超える声域と自在な表現技術、無類なスケールの大きさに惹かれて「徒然草」(1971)はじめ、数々の作品を彼のために書き、彼によって初演されるのを聞くという幸せを享受してきた。 今回、丹羽さんはカウンターテナーにとって正統的な、イギリスのルネサンス時代の声楽曲と取り組まれるが、それを聞くのはわれわれの大きな楽しみである。 <第1回> 1978年 ダウランド、ウォード、モーリー、モンテヴェルディ、カヴァッリ、パーセル 石橋エオリアンホール <第2回> 1979年 カヴァッリ、カリッシーミ、カッチーニ、ドゥランテ、ヘンデル、パーセル 石橋エオリアンホール <第3回> 1980年 モンテヴェルディ、ドンヌ、スカルラッティ、ヴィバルディ、パーセル 石橋エオリアンホール <第4回> 1981年 「妖精の女王」全5幕 ヘンリー・パーセル 石橋エオリアンホール <第5回> 1982年 「声とリュートの為のフランス17世紀宮廷歌」「火の鳥黎明編より3つの断章」ドイツ東洋文化ホール <第6回> 1984年 「オルフェオの勝利」「ヘンリーパーセル作品」音楽の友ホール <第7回> 1985年 「声とリュートの為のフランス17世紀宮廷歌」「謡夢応の鯉魚」東京日仏学院ホール <第8回> 1986年 「ラ・カリスト」「詩画集 コンコルド広場の椅子」バリオホール <第9回> 1987年 「ヘンデルとパーセルの作品」「カリフォルニアンメモリー」アビラックコミュニティーセンター <第10回>1988年 「詩画集 コンコルド広場の椅子」東京日仏学院ホール <第11回>1989年 「フランス宮廷歌曲」「エリザベス王朝のリュートソング」銕仙能楽堂 <第12回>1990年 「ベルカント・オペラの源流を求めて」「夜と昼の天使たち」石橋エオリアンホール <第13回>1992年 「ディドとエネアス」「海の見える風景」音楽の友ホール
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