夢応の鯉魚
夢応の鯉魚
夢応の鯉魚
夢応の鯉魚
夢応の鯉魚
夢応の鯉魚―雨月物語より
夢応の鯉魚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:23 UTC 版)
「夢応の鯉魚」の典拠は、天明3年に刊行された『近古奇談 諸越の吉野』にすでに、『醒世恒言』第二十六巻 「薛録事魚服證仙(薛録事魚服シテ仙ヲ証スルコト)」であることが分っていたほか、後藤丹治によって、さらにその原典の明の時代の白話小説『古今説海』 「魚服記」も参照されたことが指摘されている。 主人公の興義は、近江国三井寺の画僧として有名であった。特に鯉の絵を好み、夢の世界で多くの魚と遊んだあとに、その様子を見たままに描いた絵を「夢応の鯉魚」と名づけていた。そして、鯉の絵は絶対にひとに与えることはなかった。そんな興義が、病に罹って逝去した。だが、不思議とその胸のあたりが温かい。弟子たちはもしかしたら、とそのまま置いておくと、三日後に興義は生き返った。興義は、檀家の平の助の殿がいま新鮮な膾などで宴会をしているはずだから、これを呼びなさい、と命じて、使をやると、果たして、まさしく平の助は宴会をしている最中であった。興義は、助などに向って、宴会の様子を事細かに言い、そしてなぜ分ったのか、訣を話し始めた。 病に臥せっているうちに興義は、自分が死んだことにも気づかないで、杖を頼りに琵琶湖にまで出て、入り、泳いだ。もっと自由に泳ぎたく、魚のことを羨んでいたところ、海若(わたづみ)に体を鯉にしてもらえた。そこから、興義は、自由気儘に泳ぎだした。ここからの近江八景など琵琶湖の名所を巡る道行き文は三島由紀夫から「秋成の企てた窮極の詩」と激賞されている。 しかしその内、興義は急に餓えるようになり、餌に飛びついたところ釣られてしまい、助の屋敷まで連れてこられ、助けを求める声も聞かれずに、刀で切られてしまうところで目が覚め、ここにいるのだ、と。助はこの話を大いに不思議に思ったけれど、残っていた膾を湖に捨てさせた。病が癒えた興義はその後、天寿を全うした。その際、興義の鯉の絵を湖に放すと、紙から離れて泳ぎだしたという。興義の弟子の成光も、鶏がこれを見て蹴ったと伝わるほどの、素晴しい鶏の絵を描くことで有名だったという話である。
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