魯迅との親交とは? わかりやすく解説

魯迅との親交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 04:26 UTC 版)

内山完造」の記事における「魯迅との親交」の解説

1927年密かに汽船広州脱出した魯迅上海へ渡り内山経営していた内山書店訪れようになった10月5日魯迅が、魏盛里内山書店立ち寄った魯迅上海について2日後のことである。そのときは、内山不在顔を合わせていない。顔を合わせたのは数日後である。そのときのことを内山はこう書いている。「それから間もない頃いつも2、3人の友人同伴した藍色長衫(普通の支那服)を着た小柄であるがトテ特徴のある歩き方をする鼻下に黒い濃い鬚を生やした水晶様に澄んだ眼をしたドッシリとして小柄拘らず大きな感じのする人が私共の眼に映る様になった。いつであったか或日のこと、件の先生一人来られて色々本を撰り出した後で長椅子に腰を下ろして家内すすめたお茶飲みながら煙草に火をつけて鮮やかな日本語で撰り出された幾冊かの本を指して、『老板(ラオバン)此の本をダラッチ路景雲○○号に届けて下さい』といわれた」。 魯迅は、北京に妻をおきながら許広平事実婚し、逮捕令を避けて上海内の住居転々としたが、その住居世話をしたのが内山であった。また内山紹介魯迅は、上海訪れた金子光晴武者小路実篤横光利一林芙美子野口米次郎長与善郎らの作家詩人長谷川如是閑室伏高信山本実彦らのジャーナリスト塩谷温増田渉らの中国文学者、禅の大家である鈴木大拙らに面会することになる。 1936年10月19日魯迅持病喘息急逝した時、その絶筆は、内山への日本語メモであり、その内容日本人主治医への連絡内山依頼するものであった18日に許から手紙受け取った内山は、すぐに須藤医師手配魯迅宅に駆けつけた。に顔を伏した状態で煙草片手苦し魯迅助け休日の手配した医師らの診察後に一旦自宅帰る。しかし、翌朝5時に再度知らせ駆けつけると既に脈がなかった。内山は、親交深かった魯迅の死を許とともに悲しんだという。 内山著書生ける支那の姿』(1936年出版)に魯迅による序があり、魯迅内山を「老朋友」と著している。満州事変1931年以降日中は度々干戈を交え中国では反日機運高まった内山も「日本スパイ呼ばわりされたこともある。これに対して魯迅は「彼が本を売るのは、金を儲けたいがためであって、この点に関してにも劣る文人たちはもっと学ぶべきである」と擁護した内山1935年内山書店日本でも開業した最初東京世田谷に、1937年には神田神保町移転)。日本太平洋戦争敗れたため上海内山書店閉鎖された。内山1947年帰国させられたが、中国をよく知る日本人として、1949年成立した中華人民共和国日本国交がなかった時期から現在に至るまで内山やその親族中国交流続いている。 1950年昭和25年)、日中友好協会理事長となった1959年昭和34年)、病気療養のため中国渡り北京脳溢血のため死去した自伝的な回想録1950年脱稿した『花甲録』(岩波書店1960年平凡社東洋文庫2011年ISBN 9784582808070)がある。

※この「魯迅との親交」の解説は、「内山完造」の解説の一部です。
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