魯迅との親交
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1927年、密かに汽船で広州を脱出した魯迅が上海へ渡り、内山が経営していた内山書店を訪れるようになった。10月5日に魯迅が、魏盛里の内山書店に立ち寄った。魯迅が上海について2日後のことである。そのときは、内山は不在で顔を合わせていない。顔を合わせたのは数日後である。そのときのことを内山はこう書いている。「それから間もない頃いつも2、3人の友人を同伴した藍色の長衫(普通の支那服)を着た小柄であるがトテも特徴のある歩き方をする鼻下に黒い濃い鬚を生やした水晶の様に澄んだ眼をしたドッシリとして小柄に拘らず大きな感じのする人が私共の眼に映る様になった。いつであったか或日のこと、件の先生が一人で来られて色々本を撰り出した後で、長椅子に腰を下ろして家内のすすめたお茶を飲みながら煙草に火をつけて鮮やかな日本語で撰り出された幾冊かの本を指して、『老板(ラオバン)此の本をダラッチ路景雲里○○号に届けて下さい』といわれた」。 魯迅は、北京に妻をおきながら許広平と事実婚し、逮捕令を避けて上海内の住居を転々としたが、その住居の世話をしたのが内山であった。また内山の紹介で魯迅は、上海を訪れた金子光晴、武者小路実篤、横光利一、林芙美子、野口米次郎、長与善郎らの作家・詩人、長谷川如是閑、室伏高信、山本実彦らのジャーナリスト、塩谷温、増田渉らの中国文学者、禅の大家である鈴木大拙らに面会することになる。 1936年10月19日に魯迅が持病の喘息で急逝した時、その絶筆は、内山への日本語のメモであり、その内容は日本人主治医への連絡を内山に依頼するものであった。18日に許から手紙を受け取った内山は、すぐに須藤医師を手配、魯迅宅に駆けつけた。机に顔を伏した状態で煙草を片手に苦しむ魯迅を助け、休日の手配した医師らの診察後に一旦自宅に帰る。しかし、翌朝5時に再度の知らせで駆けつけると既に脈がなかった。内山は、親交の深かった魯迅の死を許とともに悲しんだという。 内山の著書『生ける支那の姿』(1936年出版)に魯迅による序があり、魯迅は内山を「老朋友」と著している。満州事変(1931年)以降、日中は度々干戈を交え、中国では反日の機運が高まった。内山も「日本のスパイ」呼ばわりされたこともある。これに対して魯迅は「彼が本を売るのは、金を儲けたいがためであって、この点に関して、犬にも劣る文人たちはもっと学ぶべきである」と擁護した。 内山は1935年、内山書店を日本でも開業した(最初は東京・世田谷に、1937年には神田神保町へ移転)。日本が太平洋戦争に敗れたため上海の内山書店は閉鎖された。内山は1947年に帰国させられたが、中国をよく知る日本人として、1949年に成立した中華人民共和国が日本と国交がなかった時期から現在に至るまで、内山やその親族と中国の交流は続いている。 1950年(昭和25年)、日中友好協会理事長となった。1959年(昭和34年)、病気療養のため中国に渡り、北京で脳溢血のため死去した。 自伝的な回想録に1950年に脱稿した『花甲録』(岩波書店、1960年。平凡社東洋文庫、2011年、ISBN 9784582808070)がある。
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