食用の始まりから現代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 01:05 UTC 版)
「ルバーブ」の記事における「食用の始まりから現代まで」の解説
「ルバーブ」という名が指す対象が曖昧なこともあって、薬用植物であったルバーブが食用とされた経緯は明らかになっていない。16世紀後半のイギリスでは、ホウレンソウやビーツのようにルバーブの葉を煮て食べることがあったと伝えられている。18世紀半ばには茎を食用にしたという記録がある。 19世紀の初め、農園主ジョセフ・マイアットは英国コヴェント・ガーデンの卸売市場に初めて野菜としてルバーブの葉柄を出荷した。当時ルバーブは薬用植物とみなされていたため、売れ行きは芳しくなく、「下剤のパイを売ろうとしている」と揶揄されたという。しかし、マイアットは長年の取り組みによって需要を作り出した。マイアットが自分の作った品種に王室由来の名(ヴィクトリアやプリンス・アルバート)をつけたことは一般の認知を集めるのに役立った。これらの品種は現在でも栽培が行われている。18世紀から砂糖の低価格化が進んでいたことも普及に大きく貢献した。また葉柄の甘味を増して色味を良くする軟化栽培法もこの時期に発見された。ルバーブワインや瓶詰・缶詰などの生産も行われ始め、食材としての利用は英国全土に広がった。ルバーブの生産は1939年にピークを迎えた。 ルバーブは英国植民地にも伝えられた。ジョン・バートラムは1730年代には既に北米フィラデルフィアでルバーブの栽培を行い、食用・薬用に用いていた。種子を提供したのはピーター・コリンソンである。トマス・ジェファーソンは1809年と1811年にモンティチェロの菜園で R. undulatum 種を栽培しており、「食べられるルバーブ。葉はほうれん草のように見事」という覚書を残している。1800年前後には北東部で栽培が広まり、1822年までにニューイングランド一帯の物産市場で販売されるようになった。1840年代から50年代には大規模な栽培が始められた。開拓時代の女性は、大量の砂糖を消費することに不満を感じながらも、春の味覚としてルバーブのパイを愛し、西部へその種子を運んでいった。19世紀末には著名な育種家ルーサー・バーバンクがカリフォルニア州での栽培に適した甘い品種を作出した。 第二次世界大戦は英国と米国でルバーブの人気が低迷するきっかけとなった。戦時中に砂糖や燃料が配給制となり、熟練労働者が不足すると、ルバーブの温室栽培は打撃を受けた。戦後になってもそれまでの生産量水準が回復されることはなかった。米国のルバーブ消費は長期にわたって低迷し、1980年頃にはヨーロッパ系の高齢者にしか好まれない傾向もあった。しかし、さらに近年になると、健康や地産地消などへの意識の高まりから徐々に再び注目されるようになった。
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