電力業界・産業界の有識者としての活動と晩年
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「松永安左エ門」の記事における「電力業界・産業界の有識者としての活動と晩年」の解説
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、小田原市板橋に「松下亭」(後に「老欅荘」)を建てて埼玉県柳瀬(現・所沢市)から移り、住まいとした。柳瀬で所蔵していた美術品と柳瀬荘を東京国立博物館に寄贈した。小田原では益田孝(鈍翁)、野崎廣太(幻庵)の後を受けて近代茶道を嗜み、小田原三茶人と称される。 当時のGHQによる占領政策上、日本発送電会社の民営化が課題になると、かつての敵、池田成彬の推薦により、吉田茂に電気事業再編成審議会会長に抜擢された。日本発送電側は独占体制を守ろうと画策したが、反対の声を押し切り、意を共にする木川田一隆や池田勇人らと9電力会社への事業再編による分割民営化(九電力体制)を実現した。最終的にはGHQが反対派をねじ伏せた。さらに電力事業の今後の発展を予測して電気料金の値上げを実施したため、消費者からも多くの非難を浴びた。こうした強引さから「電力の鬼」と呼ばれるようになった。 1951年(昭和26年)、こうした経緯から電力技術の研究開発を効率的かつ国家介入など外圧に影響されることなく実施するため、9電力会社の合同出資でありながら、完全中立を堅持する公益法人として、民間初のシンクタンク「電力中央研究所」を設立し、晩年は自ら理事長に就任した。 1956年(昭和31年)、私設のシンクタンクである「産業計画会議」を発足させて主宰し、経済分野の国家的政策課題について政策提言を行った。提言内容の例として東名高速道路・名神高速道路の計画や、国鉄民営化、日本最大の多目的ダムである沼田ダム計画、北海道開発などがある。報告書は内閣、衆参両院、中央官庁へ届けられ、政府の政策に大きな影響を与えた。 1959年(昭和34年)、財団法人松永記念館を設立、自宅敷地内に松永記念館本館を建て、収集した古美術品を一般に公開した。また、欧米視察の際に知遇を得たアーノルド・J・トインビーの『歴史の研究』の翻訳・刊行に尽力した。 1962年(昭和37年)、松永の米寿を記念し、池田勇人内閣総理大臣が発起人となって、財団法人松永記念科学振興財団(1962年 - 1978年)、松永賞(同)が創設された。米寿の祝いは池田だけを呼び、何もない電力中央研究所本部の屋上で行った。 1968年(昭和43年)、慶應義塾命名百年式典にて、高橋誠一郎と共に名誉博士の称号が授与された。 1971年(昭和46年)6月16日、肺真菌症の為に東京都新宿区の信濃町の慶應義塾大学病院にて死去。95歳没。葬儀は故人の遺志により一切行われず、松永家は財界人の弔問や香典・供花なども辞退している。墓所は埼玉県新座市の平林寺。 電力産業と松永のかかわりを描いたものに、大谷健『興亡:電力をめぐる政治と経済』(吉田書店、2021年。初版:産業能率短期大学出版部、1978年、再版:白桃書房、1984年)がある。
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