電力業界以外での活動
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電力会社以外では、大同電力副社長就任直後の1928年6月末に福澤桃介の後任として北恵那鉄道の代表取締役社長に昇格。1929年(昭和4年)5月には豊国セメントでも代表取締役社長に就任した。ただし豊国セメント社長は1年半後の1930年(昭和5年)11月に福澤の復帰により退いている(取締役には在任)。1923年から在任中の大同電気製鋼所取締役は1931年4月に退任した。 1932年11月30日、豊国セメントの代表取締役社長に再任された。同社は名古屋と福岡県・佐賀県に工場を持つ資本金750万円のセメントメーカーである。元は大同電力と東邦電力(名古屋電灯の後身)を親会社としていたが、翌1933年(昭和8年)になって大同電力・東邦電力はともに持株を放出。そのうち大部分を磐城セメント(現・住友大阪セメント)が買い取ったことから、豊国セメントは1934年(昭和9年)4月より磐城セメントの傍系会社となった。磐城セメント傘下に入ったものの、村瀬は引き続き社長に留任している。在任中の1938年(昭和13年)12月には業界団体のセメント連合会理事長にも就任した。 日中戦争の影響は電力業界のみならずセメント業界にも及び、国家統制が強化されていく中で業界内における自主統制の一環として磐城セメントは傍系会社の吸収に踏み切り、豊国セメントについても1941年(昭和16年)11月26日付で吸収合併した。村瀬は合併まで豊国セメント社長に在任していた。ただし磐城セメントにおいては合併後も取締役や監査役には就いていない。 1943年版の『人事興信録』によると、村瀬はこのころ磐城セメント相談役や北恵那鉄道社長、飛州木材会長などを務めていたとある。北恵那鉄道および飛州木材はともに当時日本発送電の傘下にあり、前者は前述の通り元大同電力系の鉄道会社、後者は昭和電力などが出資していた木材会社である。このうち北恵那鉄道社長在職のまま、1953年(昭和28年)3月24日に糖尿病のため死去した。満71歳没。東京都渋谷区代々木本町の自宅で告別式が営まれた。
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