電力業界への参画から実業界の引退
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「松永安左エ門」の記事における「電力業界への参画から実業界の引退」の解説
1909年(明治42年)、福博電気軌道の設立に関わり、松永が電力事業に携わる第一歩となった。その後いくつかの電力会社を合併し、九州電灯鉄道となり、さらに1922年(大正11年)関西電気と合併して、東邦電力を設立し副社長になった。1928年(昭和3年)には社長に就任し、一都十一県に電力を供給するまでになった。 この間1917年(大正6年)第13回衆議院議員総選挙に当選し、一期務めている(次の選挙で中野正剛に敗れて落選した)。 東邦電力は九州、近畿、中部に及ぶ勢力を持った。さらに東京進出を図り設立された、同社の子会社・東京電力は、東京電燈と覇権を争った。1927年(昭和2年)、東京電燈と東京電力は合併し、東京電燈株の交付を受けた大株主という立場の松永は同社の取締役に就任した。その影響力はもとより、「電力統制私見」(1928年5月1日)を発表し、民間主導の電力会社再編を主張したことなどもあって、「電力王」といわれた。 戦争に訴えなくとも日本が生きていけるということに成算があり、電力事業の国家による管理に反対した松永はその道筋を説き続けた。官僚嫌いでもあった松永は、講演会の席上で軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言した(1937年)。これらの言動は「天皇の勅命をいただいているものへの最大な侮辱」と大問題になり、新聞に謝罪広告を掲載する事態に追い込まれる。当時の企画院総裁だった鈴木貞一から「あなたは重大なリストに載っているから、手を引かないと危ない」という忠告も受けた。 戦争の激化に伴い、国家総動員法と合わせて電気事業を国家管理下に置く政策が取られ、特殊法人の日本発送電会社が設立され、9の会社が配電事業を行うことになった(一発電九配電体制)。これに伴う東邦電力の解散(1942年)を期に松永は引退し、以後は所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごした。
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