雑誌の編集長に
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1958年秋、失業保険が切れる直前に、投稿していた「雑誌改善案」で実力が見込まれ宝石社の顧問として採用された。月俸は当時としても格安の5000円。 1959年1月、6月創刊予定だったミステリ雑誌『ヒッチコックマガジン』の編集長に、江戸川乱歩の後押しで抜擢された。これは、宝石社の顧問だった田中潤司、宇野利泰、長谷川修二たちが就任を拒んだために小林のもとに回ってきた仕事で、「3号まで赤字ならクビ」という条件で始まったが、実際には13冊目でやっと黒字に転じたものである。このときの月俸は、当時の一般会社員の初任給に満たない1万円(金額は「地獄の読書録」巻末の田中潤司との対談内での発言による)。当時、宝石社には戦前の『新青年』のバックナンバーが全冊揃っていたため、この雑誌を耽読して大きな影響を受けた。同年2月号に『宝石』に商業雑誌デビュー作となる短編「消えた動機」を発表し、これは日本テレビの「夜のプリズム」というサスペンス枠でドラマ化された。 同誌の編集長としては、最初期の星新一や筒井康隆の活動をサポートした功績も大きい。また海外のショート・ショートを積極的に紹介、また純文学畑の作家である山川方夫らに、ショート・ショートを依頼するなどし、そのスタイルを日本に根づかせた。一方で『ヒッチコックマガジン』は、大藪春彦の協力を仰いだ増刊号『ガン特集』が好評を得るなど小林の趣味とは違う方向に進み、「若者のライフスタイル・マガジン」の様相を帯びた。その「洗練されたライフスタイル・マガジン」としての面は、後に木滑良久らが、平凡出版(のちのマガジンハウス)で『平凡パンチ』、『an・an』、『POPEYE』等の雑誌を創刊するにあたって大きな影響を与えた。なお、1962年に太平洋をヨットで単独横断した堀江謙一は、ヨットの上で航空雑誌と『ヒッチコックマガジン』を読んでいたという。 薄給を補う目的と雑誌の宣伝を兼ねてテレビやラジオにたびたび出演したところ人気を得て、マルチタレントの走りとして当時のマスコミの寵児となった。1962年3月には、青島幸男・永六輔・前田武彦の3人とともに「多角経営派」の名のもと、『サンデー毎日』から記事にされたことがある(「俺たちゃ"職業不定族"」)。 1963年1月、萩原津年武、大坪直行ら折り合いが悪かった者たちの策謀で宝石社を解雇された(表向きは自主退職。なお、当時、早川書房の編集者だった常盤新平は小林の解雇に同情する様子をみせながら、裏で『ヒッチコックマガジン』の次代編集長への打診を受けていたとされ、小林の恨みを買うことになる)。この時の苦い体験は〈信じていた者に裏切られる〉テーマとして、以後たびたび小林作品のモチーフとなった。「疎開経験」「実家の土地を騙し取られた体験」に加えて、この際の体験が「容易に他人を信用しない」性格にさらに拍車をかけたと思われる。ただし、大坪直行は後年「僕も悪者にされちゃっているけど、本人に相談もしないで辞めさせるのは僕は反対だった。中原さんは才人でしたよ。教わることも多かった」と回想している。 『ヒッチコックマガジン』時代の体験は、小説『虚栄の市』『夢の砦』に描かれている。ただし、『夢の砦』では時代を1959年から1962年にかえ、主人公から「作家的要素」を取り除いている。また、『夢の砦』は夏目漱石の『坊っちゃん』の1960年代版だとも語っている。
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