雇用の抑制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:02 UTC 版)
日本の労働分配率は、1990年ごろは60%程度の水準であったが、バブル崩壊以降上昇し、2000年時点では約70%となっていた。竹中平蔵は「売り上げが下がっても賃金は下げられないため、企業収益に対する労働分配率が上がってしまった」「バブル崩壊後も日本の企業は雇用をできるだけ守り、賃金を引き下げないように努力してきた。労働分配率の上昇は、資本分配率の低下を意味する」と指摘している。 リクルートワークス調査によれば、大学卒業者に対する求人数はバブル景気崩壊の1991年(約84万人)をピークに1997年(約39万人)まで減少した。その後は増加している。また、高校卒業者に対する求人倍率(厚生労働省調査)も1992年の3.34倍をピークにその後は低下を続け、2003年には1.27倍と過去最低を記録した。 要因の一つは、終身雇用が重視されていた当時の風潮の下では在籍している社員を解雇するのが困難だったために、過剰人員を削減する手段を新規採用の抑制に求めたことにある。さらに大きな要因は、1991年大晦日にソビエト連邦が消滅したことである。ソビエトがアメリカに敗れたということは、アメリカ型の無規制型経済体制が、ソビエト型の規制型経済体制より優れていると多数の日本人が思い込み、経済・雇用・社会などあらゆる制度をアメリカ型に変えることが推進されたことである。 1991年から1992年は、人口が多い1970年代前半生まれが就職する時期、1970年代後半生まれが小学6年生から高校生、1980年代前半生まれが小学生であった。このために、競争が激化し、雇用のアメリカ化が推進されたために、就職がきわめて困難になった。俗に言う就職氷河期の到来である。就職できなかった多くの若者はフリーターやニートとなり、就職氷河期世代と呼ばれ、彼らの生活・雇用の不安定さ、社会保障の負担が充分できずにセーフティーネットから外れ困窮する状態に陥るなど、大きな社会問題となっている。 このため、小渕政権から小泉政権にかけての2000年代初頭には記録的な就職氷河期となり、若年失業率は10%台を超え、大手企業の「若干名採用」「採用ゼロ」も珍しくなかった。失業率は、1999年ごろからは経営の悪化からリストラを名目とした大規模な解雇も頻発するようになり、戦後最悪を記録し全国平均で5%を超えるに至った。中途採用については、抑制がピークに達した1999年には有効求人倍率が0.5倍を割り込んだ。 特に、バブル直前期に民営化された電電公社(現NTT)や日本国有鉄道(現JR)などは、法律によって新規採用ができず、再開されたあとも余剰人員の削減のためにまとまった退職者が出るまで採用の抑制が行われた。その結果、採用を抑えられた時期に入社した世代とその上の世代では社員の数に極端な差が生じることになり、各社の社員の年齢構成はいびつな状況となった。 また学歴神話の崩壊により、バブル崩壊以前は、一定の水準の評価を受けている大学を卒業していれば、その大学に見合った就職先が事実上保障されていたといっても過言ではなかったが、極端な採用抑制のために難関大学の卒業生でさえ非常に困難な就職活動を強いられた(学歴難民)。また、本来であれば採用した新卒に対し、企業内で一定の期間教育を施して戦力として育て上げ、それから現場で業務に就かせることが普通であるが、業績の悪化を受けて教育の余裕もなくなり、新卒に対して「即戦力」たる能力を求める風潮が2015年現在でも大半の企業で続いている。1990年代から2000年代に段階的に進んだグローバル化と、それにともなう国際競争の激化も、こうした風潮に拍車をかけている。
※この「雇用の抑制」の解説は、「バブル崩壊」の解説の一部です。
「雇用の抑制」を含む「バブル崩壊」の記事については、「バブル崩壊」の概要を参照ください。
- 雇用の抑制のページへのリンク