雇用の全般
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:02 UTC 版)
「中島飛行機半田製作所」の記事における「雇用の全般」の解説
天山の生産を始めるころ、小泉製作所からの転勤を募ったが、経済統制下、未知の土地で不安から転勤を希望する人が集まらず、第一次生産要員は500人ほどだった。 米軍の報告書によると雇用に関して次のようにある。1943年12月の徴用工の入職にいたるまで従業員の増加は緩やかなものだった。1944年の初めには徴用工の増大と最初の動員学徒のために全従業員数は激増した。1945年2月には全従業員数28569人でピークに達した。1944年6月には2交代制が採られた。しかし1944年10月において2%以下というごく少数の従業員だけが夜勤で働いていたにすぎない。1944年11月には3交代制が採られ、1945年5月まで続いた。3交代制の最盛期だった1945年1月には全体の5.5%が夜直(16時〜0時)で、4.5%が深夜直(0時〜8時)で働いていた。 一方で、勤務に関して、始業が7時30分、理由があれば定時あがり自由だったが、2時間の残業が普通で4時間残業も珍しいことではなかった。日曜・休日全くなしということもあった、とする証言があり、また全員泊り込み作業(徹夜作業)がしばしば行われたという証言もある。徹夜作業といっても、夜食後、午前3時〜4時に作業から上がって入浴・仮眠させなければ身体が続かないので山方工場の寄宿舎と浴場が徹夜作業者用にあてられたという。 徹夜作業をすると、夜中の12時から食堂で食器に一杯の雑炊が出た。それを目当てに希望者が多く、交代制にした、という証言がある一方、1945年1月だったか、二直制、三直制勤務といわれ約1週間実施したが不都合が多く、すぐに全員一直、長残業制に戻した、とする証言もある。 一方で、給料の支給額は当時としてはかなりの高額であったという(旧制中学卒、経験年数1年9カ月で支給総額144円80銭、手取125円。昭和20年8月分)。
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