集団離島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:37 UTC 版)
「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「集団離島」の解説
八丈小島のマレー糸状虫対策が進んだ1960年代の日本は高度成長期の只中にあり、日本人の暮らしが大きく変革を遂げていく中で、小島の子供たちは中学校を卒業すると八丈島の高校に進学したり、東京の会社へ就職したまま島へは戻らなくなる若者が増加し始めていた。古くから自給自足に近い暮らしの小島には、これと言った産業は皆無に等しかったのである。島の将来に不安を持ち始めた島民たちの間で全員移住という話が具体的に持ち上がりはじめ、鳥打地区、宇津木地区の代表は島民たちの声を取りまとめ1966年(昭和41年)3月、八丈町議会に全員離島請願書を提出した。 島民たちの請願内容を要約すると、 電気、水道、医療の施設がない。 生活水準格差の増大。 過疎の傾向が甚大である。 子弟の教育の隘路。 このようなものであった。 同年6月、八丈町議会は八丈小島島民の請願を採択した。同町長池田要太は早速上京し、東京都に対して小島住民の意思を伝え移住費の協力を求めた。太平洋戦後、日本政府は日本各地に多数ある離島の生活支援のため、離島振興法を1953年(昭和28年)に制定したものの、人口の少ない八丈小島はその恩恵に与ることもなくここまで来てしまっていた。9月には八丈町による東京都への「八丈小島住人の全員離島の実施にともなう八丈町に対する援助」の陳情が行われ、翌1968年(昭和43年)東京都は「全員離島対策措置費」を都の年度予算に計上し島民との交渉が開始された。先行きの見えない将来に不安を持つ島民らと行政側による交渉や議論が重ねられ、同年10月16日、東京都八丈支庁において鳥打地区、宇津木地区各1名の代表を含む八丈小島民代表13名は、「全員離島・移転条件」を呑み合意書に署名した。 東京都が示した条件は 3.3m2(1坪)あたり93円で、島民の所有地(全面積140万m2)を買い上げる。 買い上げ金が50万円に満たない場合は、生活つなぎ資金を支給し、総額で50万円を下回らないようにする。 ひとり10万円の生活資金と、一世帯あたり50万円の生業資金を融資する。 都知事からひとり5千円、1戸3万円の見舞金を支給する。 また、八丈町からは 都の生業資金の利息の3分の2を、町が肩代わり負担する。 第二種都営住宅に優先入居させる。 というものであった。 こうして八丈小島からの全員離島が正式に決定された。これは日本全国初事例となる全員離島であった。 1969年(昭和44年)3月31日、24世帯91人は、先祖の遺骨を抱いて島を離れ八丈小島は無人島になった。同島でのフィラリア対策は無人島となったことで事実上の終了を迎えた。寄生虫学者の藤田紘一郎は「1969年の島民の離島により、事実上のフィラリア対策を打ち切っている」と述べ、八丈小島での調査を長年にわたり率いてきた佐々学は自著の中で「全員移住により無人島となると共に、その流行地は消滅したことになる。」とだけ述べ、全員離島そのものについては語っていない。八丈小島のマレー糸状虫対策は成功したが、インフラ未発達のため、島民は島を出ていってしまった。皮肉なことにこの島からマレー糸状虫がいなくなったのとほぼ同時に、人間もこの島からいなくなってしまったのである。
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