阿久遺跡とは? わかりやすく解説

阿久遺跡

名称: 阿久遺跡
ふりがな あきゅういせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 長野県
市区町村 諏訪郡原村
管理団体
指定年月日 1979.07.02(昭和54.07.02)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S53-12-026[[阿久遺跡]あきゅういせき].txt: 八ヶ丘西南麓には尾根上の丘陵発達し縄文時代中期にはその尾根適地選び大規模な集落形成され八ヶ岳西南遺跡群呼ばれ広く知られている
 阿久遺跡は、昭和50年から53年にかけて中央道遺跡調査会発掘調査し、原村教育委員会確認調査行なわれ範囲性格確かめ、その重要性が明らかとなった
 この遺跡は、阿久川と大早川はさまれた西にのびる丘陵上に営まれ縄文時代前期集落跡であるが、関山期、黒浜期、諸磯A・B期の3期にわたり大きな変化示しつつ推移している。関山期に丘陵上に径60メートル円形広場設け、その外周に幅3070メートル住居域をめぐらす広場には掘立柱遺構発見され建物か囲柵とされ、例のない重要な遺構とみられる規模大小があり、大は7.3×6.8メートル、すべて僅かに長方形平面とっている。黒浜期の広場は径70メートル、その周囲には住居域が馬蹄形にめぐるものとされているが、掘立柱遺構検出されていない。諸磯A・B期に集落構造に大変化みられる丘陵上に径50メートル円形広場設け外周に幅2545メートル配石帯がめぐり、外方住居域が存する従前例のない配石帯は、河原石を小範囲集めた集石、10前後の集石からなる集石群という単位識別が可能で、調査地区内では12群がみられ、群間にも多く礫石があって全体として配石帯が構成されており、祭祀要素の強い遺構である。円形広場中央には高1.34メートル石柱が立ち、その周囲平石で径2メートルの円に囲み北東2枚ずつ大きな平石を対にした通路遺構があり、集落広場中心としての機能をもつものであることを示している。
 阿久遺跡は初現的な馬蹄形集落として注目される縄文時代前期遺跡であり、集落構造変遷特色ある掘立柱遺構広場を囲む配石帯と中央の石柱・石列などその時代をうかがう極めて重要な所見もたらしただけでなく、中期縄文文化への連繋考える上にも欠くことのできない重要な遺跡である。
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阿久遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/27 20:38 UTC 版)

阿久遺跡
阿久遺跡
阿久遺跡(2015年11月撮影)
阿久遺跡
阿久遺跡 (日本)
所在地 日本 長野県諏訪郡原村
座標 北緯35度57分53秒 東経138度11分18秒 / 北緯35.96472度 東経138.18833度 / 35.96472; 138.18833座標: 北緯35度57分53秒 東経138度11分18秒 / 北緯35.96472度 東経138.18833度 / 35.96472; 138.18833
歴史
時代 縄文時代
追加情報
一般公開 なし

阿久遺跡(あきゅういせき)は、長野県諏訪郡原村に所在する縄文時代遺跡であり、現在のところ最古級の環状集石が構築されている。配石遺構ともいう。1979年(昭和54年)7月2日、国の史跡に指定されている[1]

概要

縄文時代前期を通じて長野県八ヶ岳西麓の阿久川と大串川に挟まれた標高904メートルの丘陵上に拡がる大遺跡である。中央自動車道西宮線の工事に伴い発掘調査がなされ、遺跡を破壊して中央道を建設するか保存かが問題となった。議論の結果、中央道の設計変更がなされ、中央道の下に埋没保存という形になった[2]

  • 前期初頭には30棟の建物と8基の方形柱列がつくられた。
  • 前期中期には20という近い建物や土抗墓群が営まれた。
  • 前期末葉には丘陵中央に大環状集石群が構築された。

環状集石群(ストーン・サークル)

この環状集石群の規模は長径120メートル、短径90メートル、幅30メートルで、約20万個のこぶし大から人頭大の河原石をドーナッツ状に配するものである。ドーナッツ状リングの中央に立石構造があり大小24個の板状の角柱石(安山岩)と半径1メートルの円形に8個の平石が囲んでいて、その周りに人骨を埋葬したと思われる土坑と河原石を直径2-3メートルの円形に積んだ集石遺構が多数取り巻いている。約700基余りの土壙墓があると推定されている。さらに、この集石墓から約50-100メートル程離れたところに、ほぼ同じ時期の竪穴建物跡が南と東に分かれ、それぞれひとまとまりになって分布している。これらの立石・集石群は、中央の立石からドーナツ状の集石群の間を通して蓼科山を拝望できるように作られた祭祀場であったと考えられている[3]

これだけの大遺跡が一つの集落だけで造ったものでなく、この地域に存在する集落群(村落)の労働力を集中して造られたと推測できる。このように縄文社会は、村落をあげての共同労働や共同作業を管理運営組織が存在した社会であったと想像するに難くない。

出土品の保管・展示

出土品は遺跡に隣接する原村埋蔵文化財収蔵庫に保管されており[4]、基本的に公開はしていないが希望者には見学の便宜が図られている。その他、八ヶ岳美術館にも一部保管されており、こちらの方は一般公開されている。

出典

  1. ^ 文化財を大切にしましょう(諏訪郡原村)
  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『阿久遺跡』 - コトバンク
  3. ^ 原村教育委員会 『阿久 No.2』(1983)p7
  4. ^ 原村埋蔵文化財収蔵庫を紹介します(諏訪郡原村)

関連項目

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