長榴弾砲概要
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長榴弾砲は明治43年の要塞整理委員決議に基づき長射程の要塞備砲として研究が開始された。技術審査部は明治44年 (1911)に設計を完了し、大正元年 (1912)12月に設計要領所を提出した。本砲は固定砲床を用いる砲身後座砲で口径305 mm・砲身長23.5口径・高低射界-2〜+65度・最大射程14,000 mといった諸元を備えるものとした。開発に当たっては短榴弾砲と同じく第一次世界大戦の勃発によって海外に発注した素材の供給が滞ってしまったが、到着した素材は短榴弾砲の速成に用いられた。更に素材をすべて国産のものとした試製砲は大正5年末より製造開始、大正6年12月に完成した。大正7年1月に伊良湖射場で第1回機能試験および弾道試験を行い、結果が良好であったためにこの試験のみで本砲の審査を終えることとなった。陸軍技術審査部は大正7年10月31日に本砲を七年式三十珊長榴弾砲として制式制定を上申した。本砲もまた度量衡法の改正に伴う度量衡の単位変更により七年式三十糎長榴弾砲と表記することとなった。 大正15年 (1926年)2月22日付第644号研究方針によって長榴弾砲を陸戦で使用するための移動砲床の研究が開始された。試製移動砲床は同年8月に完成したものの試験で用いる長榴弾砲が無く、昭和3年 (1928年)の13号砲の完成を待つこととなった。同砲を用いて同年8月から9月にかけて機能試験および砲弾100発を用いての射撃抗堪試験を実施した結果、砲床の組み立てに問題はなく砲の据付も四脚三十瓩起重機を用いれば固定砲床上となんら変わりなく作業が行えることが確認された。移動砲床の実用試験は省略し、昭和5年6月に制式制定が上申された。総重量は陸軍の移動式の砲としては最大級となる122,937kgに達し、組み立ては天候や地形にも左右されるが30名の人員で約30時間を標準とした。実際の運用では60名で25時間、最も長いものでは80名で50時間を要することもあった。 火砲の構造は基本的に短榴弾砲と同様の構成をとっている。その規模・重量から砲の移動速度や展開時間の点で短榴弾砲より劣るものの、引き換えに縦深を有する敵陣の破砕においてはより優れた性能を有していた。距離6,000 - 10,000 mの目標の破壊に要する所要弾数は短榴弾砲の半分程度であった。現場からは長榴弾砲の攻城砲としての価値を引き出すために備砲作業要員の増加や作業の機械化などに対する要望が出されていた。 昭和13年(1938年)4月には機密保持上の観点から本砲の陸軍部外に対する名称として「特二十四糎榴弾砲(長)」を使用するよう通達が出された。
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