銀行強盗計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:16 UTC 版)
そこで、資金獲得のために銀行強盗を思い立ち計画が進められた。当時、事件の首謀者は松村(スパイM)とされていたが、実際に計画を発案したのは、のち建築家となる今泉善一であった。後のインタビューで、今泉は企画を持っていったのは自分で、やるよりしょうがないだろうという結論を出したのも自分と述べている。 アメリカのギャング犯罪が載っている本を読んで銀行強盗の研究をし、密輸業者からピストルを60丁以上購入し、ゴロツキを使って、東京白山の不動貯蓄銀行(のち他行と合併し日本貯蓄銀行。協和銀行を経て、現りそな銀行の前身行のひとつ)白山支店を襲撃しようとした。しかし、そのゴロツキに準備資金を持ち逃げされて失敗に終わった。この経験から、党員自らが実行する方針に変更し、再度不動貯蓄銀行を襲おうとしたが成功しなかった。 大森の第百銀行を選んだのは実行部隊の中の石井の父親が同銀行と取引があり、内情に詳しかったためであった。襲撃は大塚らが実行し、今泉本人は司令部にいて彼らの報告を受け指示等をしていた、司令部はビルの一室を借りて広告会社名義の看板を掛けていた。 1932年10月6日、実行犯主導者の大塚は、西代義治、中村隆一らを指揮し、東京大森の川崎第百銀行を襲撃、ピストルで行員を脅して3万円を強奪することに成功する。モーニングを着て、盛装した河上芳子、井上礼子を連れて、車に乗り強奪した金を運んだ大塚は、非常線に2回引っかかったにもかかわらず、無事通過することができた。 河上芳子は、河上肇の次女で大塚のハウスキーパーであり、井上礼子は京都市長であった井上密の次女で、実行犯の西代の恋人であった。 襲撃に使用したピストルは右翼の男の紹介で神戸に2回ほど出向いてその筋から外国からの密輸入のものを2ダースぐらい購入、1ダースくらいが同じスタイルで、あとは様々なスタイルが混在し、弾は200から300発程であった。購入した銃は分散して隠した。大塚らが奪った金を新橋で受け取り、確認するとかばんの中に帯封のかかったものとバラで2万いくらか、アジトでMに渡した。逃走用に使った自動車は日本共産党技術部が円タク事業のために購入したものが使われた。 強盗計画の首謀者である今泉の逮捕は事件後3日目で、拳銃を取引している右翼の密告があり、右翼と会う街頭連絡で逮捕された。ピストル密売のルートから糸をたぐった警察による捜査ともいわれていたが、今日ではスパイMの存在により、犯人らの動向は完全に把握されていたことが判明している。神楽坂の警察署、続いて警視庁に護送され、市ヶ谷刑務所拘置房に勾留された。前後して大塚をはじめ家屋資金局のメンバーが次々と逮捕される。大塚は逮捕されてから、スパイの手で党の秘密が警察に完全に握られていたことを知り、もはやこれ以上苦労をしても無意味であると思い、丁重に扱うことを条件に義兄である河上肇のアジトを教えたため、河上も逮捕された。 今泉は大塚ら14名とともに、強盗、窃盗、爆発物取締罰則違反、私文書偽造詐欺並びに治安維持法違反等、東京地方裁判所西久保予審判事の手で審理され、予審終結決定する。事件に関係した者はずっと後で逮捕されたと今泉は語っている。 今泉は治安維持法違反に問われ、一審で求刑が15年、判決は13年となる。強盗罪ではなく治安維持法違反に問われたのは、殺人と傷害を伴わない強盗は10年未満で出所できるためであった。 事件は権力による赤狩りに利用された一方、日本共産党指導部は、同事件関係者を「スパイ一味の挑発者」と規定した。赤色ギャング事件の実行責任者であった大塚は、同事件の責任転嫁をした党上層部への怒りと、部下に対する責任を痛感し、苦悩したという。
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