金沢城と金屋石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/17 15:22 UTC 版)
1632年に行われた金沢城の再建に金屋石が用いられたのが最初かも知れないが、大々的に使用されることになったのは天保年間以降であろう。金屋石の採掘は石灰の生産と同時期の天保年間以降に始められたものと推測される。大掛かりな採掘・販売は、天保の改革によって社会の流通経済機構が大きく変化し、加賀藩がそれに対処しようと新しい産業の振興に力を注いだ結果だと思われる。 藩政初期のころ 1632年(寛永9年)に金沢城を再建した際、前田利常は小松の町人板屋平四郎に命じて城から10km隔てた犀川上流の上辰巳からサイフォンを利用して城内に飲料水を送る工事を行い、辰巳用水を作った。送水管は長さ1.0〜1.3mの金屋石製の石管(樋石)で、継ぎ目には松やになどの接着剤で漏水を防いだ。ただこの事について確かな記録は残っておらず、伝承として今に伝えられている。 藩政末期のころ 金沢城に関する資料で、金屋石が初めて登場するのは「金沢城保存修理工事概要」で、藩政末期の天保年間(1830年〜)以後の工事とみられる。 城への運搬方法 1843年以降、運搬の際には金屋岩黒村肝煎源三郎と恒三が石材の生産責任者となり、それぞれ手合いを組織してその任務に当たった。金屋石は主に千保川を川舟で戸出まで下し、そこから高岡木町の舟方が伏木へ運び、伏木から外海船によって能登半島を回り、金沢に近い宮腰浦(金石港)に運ばれた。 1844年、樋石の輸送を命じられた金屋岩黒村の恒三は、8月中旬に樋石を千保川に下し、木町舟方に渡すことにしたが、氷見・海老江・六渡寺・灘浦の舟方は伏木から宮腰への海上輸送が秋口に入ったため波が高く、時節遅れであること、また宮腰は磯浜であり、積み上げが難しいので海上が和らぐ春まで延期してもらいたいと願い出た。その結果、輸送は延期となり、翌1845年3月に樋石の輸送が開始され、6艘の舟がこれに当たった。 1846年3月にまた樋石の川下げが通達された。それは前年に残した石川門外の樋石甲二を藩主の参勤帰城前に完了させたいということで石川門の工事に金屋石が使われた。この時の運搬には海運業で名を馳せた豪商 銭屋五兵衛が当たった。 1846年5月に川下げされた金屋石は、樋石81本、継手4本、枕石1本で会った。木町文書によると、金屋石の輸送は天保14年ごろから藩政末期の1862年(文久2年)ごろまで約20年にわたって続けられた。 輸送量の一例 1日の輸送量(高岡市木町文書より)年月日石材の種類・数量総重量備 考1861年(文久元年)4月18日樋石62 枕石40 つば石1 7,700貫(約30トン) - 1861年(文久元年)8月13日樋石58 枕石15 つば石3 6,077貫(約23トン) 樋石の長さ35間(64m分) 1862年(文久2年)2月29日板石11 曲樋2 2,244貫(約8トン) - 工事施工の手順1839年(天保10年)7月、金屋岩黒村の石工 久蔵・長兵衛・宗八・伝助の4人に対し、奉行役人から御用相勤の藩命が出され、これに対し4人の石工は連署の上、十村役に請書を差し出した。それには金屋岩黒村肝煎九左衛門ら6人の村役人が連署して、4人の石工の身元引き受けをした。 発見された石管昭和45年、金沢城跡学術調査委員会の手によって数十本が掘り出された。現在、金沢城、兼六園、県立歴史博物館に置かれている。
※この「金沢城と金屋石」の解説は、「金屋石」の解説の一部です。
「金沢城と金屋石」を含む「金屋石」の記事については、「金屋石」の概要を参照ください。
- 金沢城と金屋石のページへのリンク