酪農経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:45 UTC 版)
愛光舎牧場は、天然痘牛痘ワクチンの製造所。のちに牛乳の製造販売を展開した。 1898年(明治32年)『巣鴨牧場』開設 1899年(明治33年)『神田(牛乳)販売所』を開設。日本では初となる蒸気殺菌牛乳を製造。*飼育と搾乳は巣鴨で行い、販売所を神田に置いた。 1902年(明治36年)乳牛用の牝牛の輸入を開始。1902年(明治36年、牝・牡各1頭のジャージーをアメリカから輸入した。1906年(明治40年には純粋牝・牡20頭をアメリカから再び輸入、さらに翌41年にみたびアメリカに渡り、アウル系の優秀な純粋牝・牡6頭を購入、愛光舎におけるジャージーの繁殖を行った。この中の1頭、ゼ・アウルス・クイーン号についてみると、初産で乳量7,292.2ポンド(約3,300㌔)、乳脂量442.7ポンド(約200㌔)を出しており、帝国ジェルシー種牛会報第2号には、「本牛はアウル系中出色の才物にして能く父母両牛の各特徴を継承し、ジェルシー種牝牛としては真に模範的典型を得たるものとす。其体格の発育円満にして各部の調和宜しき。其品位の優雅高尚にして自から尊貴の形貌を具へたる」と記載されている。角倉賀道は愛光舎牧場を明治32年東京府巣鴨に創設、次いで明治38年に埼玉県大宮に愛光舎大宮種牛牧場を作り、ホルスタイン種牛の大量輸入も同時に行った。このように明治末期には東京においても次第に乳牛を飼養するものが増え、搾乳して市民に販売する牛乳搾取業の方が多く存在したと考えられる。(内訳:1902年 1頭・1903年 ブラウンスイス種 26頭・1904年 6頭・1907年 ブラウンスイス種 33頭、ホルスタイン種 24頭・1908年 ブラウンスイス種 38頭、ホルスタイン種 13頭・1909年 ホルスタイン種 9頭) 1905年(明治38年)『大宮牧場』開設。(埼玉県北足立郡大宮町(現在のさいたま市大宮区、コクーンシティ周辺)に8,000坪の大宮種牛牧場を開設。輸入ホルスタインほか乳牛300頭を飼育した。無結核牛乳を販売、法律制定以前に「低温殺菌消毒法」を日本で初導入、牛乳瓶の容器も改良して乳業界の一大革命を行った。その広大な規模は当時全国一と評される。のち片倉組大宮製糸場に土地を譲り閉鎖) 1910年(明治43年)愛光舎『千葉製酪所』 安房郡平群村山田に製酪所を設けた:38。しかし交通が不便であったことから:38、地元の製酪組合に施設を譲渡して船形町に移転:40。 1913年(大正2年)愛光舎『那古出張所』千葉県館山市の那古町に1,500坪の土地を取得して「愛光舎那古出張所」を開設。牛舎のほか発酵室などが設けられた:40。同年『巣鴨牧場』を板橋競馬場(板橋区板橋町)の跡地に移転。愛光舎事件にて摘発を受ける「不正牛乳事件」 1919年(大正8年)「那古出張所」が房総煉乳株式会社(現 明治乳業)に買収される 1927年(昭和2年)賀道が死去。長男正道が牧場を継承。再度、不正牛乳事件にて愛光舎主に罰金刑(愛光舎事件)[引用:新聞集成昭和編年史 昭和2年度版 3 (七月~九月)]
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